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LNJ Logo 「水俣」の映画監督 土本典昭さん逝く(東本高志)
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*以下、amlメーリングリストから紹介します。
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「水俣」の映画監督 土本典昭さん逝く    東本高志@大分

24日、「水俣」の映画監督、土本典昭さんが逝去されました。

土本監督は「ゆふいん文化・記録映画祭」のいわば常連で、4、5回ほど間近で土本さんの 謦咳に接することがありました。

昨年の「ゆふいん文化・記録映画祭」では、やはり同映画祭の常連監督で一昨年10月に病 に斃れた『マイブルーヘブン 吉野作造・デモクラシーへの問い』の監督、松川八洲雄さんを 偲ぶ「追悼・松川八洲雄特集」が組まれたのですが、同監督の親友でもある土本さんは、松 川監督の長女の映画評論家まつかわゆまさんとともにそのシンポジウムのゲスト・スピーカ ーとなりました。

そのとき「いまだから話せるけど」と70年代初頭に松川監督らとともに警察から指名手配中 の新左翼系幹部を匿っていた「事実」を明かしたのが印象に残っています。一応「進歩」的 な映画仲間の多くがあれこれ理由をつけて「逃亡犯」を匿うことに二の足を踏んでいた中で、 松川監督だけはなにもいわずに2年ほど「彼」を匿い続けた。土本さんは、松川監督の正義 感のほんものさと誠実さをいうために《白状》したのです。松川監督の長女のゆまさんも、土 本監督の方を向いてペロッと舌を出して、将来の進路に悩んでいたときに「彼」から大学進 学を説き伏せられたこと、「彼」から家庭教師代わりに勉強を教わったことなどを《白状》しま した(松川監督の家庭での「男権」ぶりも暴露しましたが。「実際に「彼」の身の回りの世話を したのは母であって父ではないのです」と)。

しかし、「犯人蔵匿」の罪の一番の黒幕、すなわち正義感の主のもうひとりは、ほかならない 土本監督ご自身であったことはいうまでもありません。土本さんはそういうことはいわないの です。お話を聴くだけでシャイな人だということはわかるのです。

一昨年の同映画祭ではくだんの松川監督のドキュメンタリー『吉野作造・デモクラシーへの 問い』が上映されましたが、このときも土本監督は、病気療養中の松川監督の代理として、 筑紫哲也さんらとともにゲスト・スピーカーをつとめられました。そのときはメディアの問題が テーマになっていたのですが、そのことに関連して土本監督は水俣の問題を熱く語り、なぜ メディアはいま問題になっている水俣の産廃問題、そのことが争点となっている水俣市長選 の問題を取り上げないのか、とこの問題をまともに報道しようとしないメディアの姿勢を厳しく 批判してしました(下記写真。筑紫さん(背中姿)の左隣のメガネ姿が土本監督)。 http://www.news.janjan.jp/media/0612/0611305676/1.php

昨年の「ゆふいん文化・記録映画祭」では「六ヶ所村ラプソディ」も上映されましたが、その ときも土本監督は、「六ヶ所村ラプソディ」監督の鎌仲ひとみさん、六ヶ所村の菊川慶子さん とともにゲスト・スピーカーをつとめられ、大先輩として鎌仲ひとみさんを励まし、「六ヶ所村 ラプソディ」の視点、その製作スタンスをたいへん評価されていたのが印象的でした。土本 監督は一生懸命な後輩にはやさしいのです。鎌仲さんも「土本さ〜ん」と娘のように甘え、 土本さんを信頼しきっていました。

これは2年前のことになるのでしょうか? 「水俣病公式確認五十年」をメモリアル(節目)と して福岡市で朝日新聞主催の記念講演会がありました。そのときのシンポジウムのパネラ ーのおひとりも土本監督でした。その他のパネラーは石牟礼道子さん、原田正純さん、水 俣病被害者の杉本栄子さん(2008年2月逝去)、同じく水俣病被害者で熊本県の調査票に 親類の「無職」を「ブラブラ」と記載された緒方正実さん。そのときの土本さんの杉本さんや 緒方さんら水俣病被害者の声に真剣に耳を傾けようとする姿勢がこれも印象的でした。 「ぼくはミナマタの人たちの声を全面的に信用するな。ミナマタの人たちの声はまったく正 しい」というのが土本さんの発言でした。

下記の報道記事の石牟礼道子さんの言葉「印象に残るのは土本さんの腰の低さ」。また、 水俣病1次訴訟の原告、坂本フジエさんの言葉「まだ患者に話を聞きに来る人は少なか ったとに、一生懸命話ば聞く人だった」。また、映画監督の羽仁進さんの言葉「プロの映画 監督になると人間の目で作品を作ることを忘れがちだが、土本監督は最後の最後まで人 間の目を忘れず、さらに深めていった」・・・・。そのすべての言葉が心のこもったお悔やみ の言葉であることを私は実感として理解できるのです。数少ない土本監督との決して近し いとはいえない会面を通じても・・・・

土本監督の誠実、謙虚さを示す、彼としておそらく「最期」に近い言葉を下記に示しておこう と思います。『出草之歌』上映をめぐっての同映画監督の井上修さんとの対話の一節。

土本さんの真摯さ、誠実さがまっ直ぐに伝わってくる対話のように思います。


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■「水俣一揆」ドキュメンタリー作家、土本典昭さん死去
(朝日新聞 2008年6月24日)
http://www.asahi.com/obituaries/update/0624/TKY200806240191.html
 40年にわたって水俣病の惨禍を追い続けた記録映画作家の土本典昭(つちもと・のりあき)さんが24日午前2時47分、肺がんのため千葉県南房総市の病院で死去した。79歳だった。葬儀は近親者で営み、後日お別れの会を開く。喪主は妻基子(もとこ)さん。連絡先は東京都中野区中野5の24の16の210のシグロ。

 記録映画作家として注目を集め始めた60年代半ば、テレビ番組の取材で水俣病と出
会う。65年、テレビドキュメンタリー「水俣の子は生きている」を発表。以来、未認定患者や、チッソと交渉を続けるグループなどに密着し、71年に長編「水俣 ―― 患者さんとその世界」を完成させた。

 同作で世界環境映画祭グランプリを獲得。その後も水俣病を主題に「水俣一揆 ―― 一生を問う人びと」など10本以上を制作した。丸木位里・俊夫妻が水俣を描く姿を記録した「水俣の図・物語」(81年)で毎日芸術賞。亡くなった水俣病患者の肖像写真を集めた展覧会の企画もした。

【私注:上記の展覧会について、熊本日日新聞は次のように記しています。「九六年に開かれた「水俣・東京展」では、水俣を約一年がかりで歩いて撮影した水俣病患者五百人の遺影を展示。無言の遺影が、水俣病問題の重大さを観衆に問い掛けた。】

 岐阜県土岐市生まれ。早大で学生運動に傾倒。羽仁進監督「教室の子供たち」などの
影響から、56年に岩波映画で働き始め、フリーに。小川紳介や東陽一、黒木和雄の各
監督らと交流した。

 63年、列車乗務員の過酷な勤務を追う「ある機関助士」で本格デビュー。タクシー運転手に密着した「ドキュメント 路上」は64年、英エディンバラ映画祭で賞を受けた。

 他に、内戦のアフガニスタンへ出かけた「よみがえれカレーズ」(89年)など。最後の作品も、水俣を扱った「みなまた日記 甦える魂を訪ねて」(04年)だった。
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◆患者と語らう 強い信念に信頼(同上、紙版)

 「苦海浄土」で水俣病を描いた作家石牟礼道子さん(81)は23日夜、土本さんが亡くなる4時間ほど前、入院先に電話したという。「本人はもう話せない状況で、家族から『声をかけてください』と言われ、『私もやがてそちらに行きます』と申し上げました」と明かす。

 土本さんについて「水俣病の歴史を残すのに、土本さんの映像があるのとないのとではずいぶん違う。貴重な記録を残された。印象に残るのは土本さんの腰の低さ。スタッフも謙虚な人ばかりで、水俣で映画を撮ったときも、村の人に親しまれていました」と振り返った。

 土本さんは71年製作の「水俣 ――患者さんとその世界」の撮影中、水俣病1次訴訟の原告だった熊本県水俣市の浜元二徳さん(72)宅に半年間滞在した。浜元さんは土本さんを患者宅に案内し、撮影後に午前2時ごろまで酒を飲み、語り合ったという。「兄のようだった。若くてまじめで一生懸命で、よう(患者の)話ば聞きよった。昔のことば知っとる人間が少なくなり、残念で悲しか」と惜しんだ。

 映画にも登場する水俣病1次訴訟の原告、坂本フジエさん(83)=水俣市=は「まだ患者に話を聞きに来る人は少なかったとに、一生懸命話ば聞く人だった。体格がよく元気だった印象がある。こげん早う亡くなるとは、本当に残念です」と悲しんだ。

 胎児性患者の研究などで知られる熊本学園大教授で医師の原田正純さん(73)は「水俣病の歴史で、土本さんの映画は運動に決定的な影響を与えた。強い信念を持ちながら自分の考えを押しつけず、相手の意見をよく聞く手法は医学の診察法にも通じる。患者も信頼した」と振り返った後、「寂しいね。だんだんいなくなっていく」とつぶやいた。
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■訃報:土本典昭さん79歳=「水俣」描いた記録映画作家
(毎日新聞 2008年6月24日)
http://mainichi.jp/select/science/news/20080625k0000m040019000c.html

 「水俣の図・物語」など水俣を描いた多くのドキュメンタリー映画を製作した記録映画作家、土本典昭(つちもと・のりあき)さんが24日、肺がんのため死去した。79歳だった。葬儀は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻基子(もとこ)さん。

 岐阜県生まれ。学生運動で早大文学部を除籍後、岩波映画に入り57年からフリー。羽仁進監督の助監督などを経て、63年に機関士と機関助士の一日をドキュメントした「ある機関助士」でデビュー。京大全共闘の学生を撮った「パルチザン前史」や「シベリヤ人の世界」などで「社会派」監督としての地位を築いた。

 65年以降、「水俣−患者さんとその世界」「水俣一揆−一生を問う人びと」「不知火海」といった水俣病をテーマに17本の記録映画を製作。「水俣の図・物語」で毎日芸術賞(81年度)を受賞した。他に、原子力船「むつ」の母港建設で揺れる漁村を取材した「海盗(と)り−下北半島・浜関根」など。ソ連撤退後のアフガニスタンをルポした作品でも知られた。

 ◇人間の目を忘れず
 ▽羽仁進監督の話 プロの映画監督になると人間の目で作品を作ることを忘れがちだが、土本監督は最後の最後まで人間の目を忘れず、さらに深めていった。「水俣」ものは傑作。土本監督は患者さんを撮影対象としてではなく、同世代の人間として見ていた。
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■『出草之歌(しゅっそうのうた)
  台湾原住民の吶喊(とっかん)背山一戦(ぺいさんいつぁん)』をめぐって
対談/井上修(『出草之歌』監督)×土本典昭(記録映画作家)
(「思想運動」紙 2006年5月15日付)

日本人の台湾への無理解を打ち破る

土本:ぼくがこの(『出草之歌』を観た時、まず思ったのは、ぼく自身の台湾観が実に曖昧だったということでした。映画の中で高金素梅さんは「われわれは二度侵略を受けた」と言いますね。その五一年におよぶ日本の支配の最初の頃には、何回にもわたる攻撃で原住民の多くが殺された。二回目の侵略とは皇民化教育のことで、原住民の戦闘能力の高さを買われて"日本人として畧鐓譴帽圓され、あげくのはてに靖国神社に葬られる。そうしたことはこれまであまり知らされてこなかったと思う。観ていて、そのことを非常に恥ずかしく思いました。

井上:台湾の情報はあまり入ってきませんし、七二年の日中国交回復以来、台湾のことを語ることは、日本の知識人・文化人にとって御法度でしたからね。

土本:いつのまにか、ぼくもその一員でした。そうしたことへの驚きがあったから、ほんとうに惹きつけられてこの映画を観た。かれら原住民の知性、そして奥深さには驚きました。かれらは、四〇万の原住民だけでは権利獲得運動を闘えないから、漢民族、日本人といった世界の人々と結びつかなければならない、と考えている。疎外・迫害されている民族全体が自分たちの仲間だと。人種主義じゃないんですね。

井上:あの考え方はほんとうにびっくりですよ。

土本:どういう闘いのなかからそうした発想が生まれてきたのかといえば、かれらの社会の伝統に根ざした、他人と争わないで分配を重んじる考え方と、台湾に戒厳令がなくなって後の九〇年代ころからだと思うけれど、急速に社会意識にめざめた原住民が自覚的な問いかけを続けてきたからだと思う。それによって靖国抗議運動についても、実に高いレベルで闘いが組まれている。「自分たちの先祖の魂を返せ。まだ日本は主人ヅラしているのか」誰にでも分かる理屈ですよ。しかも裁判で請求している賠償金は一万円でただも同然で、そこには実に精神的な表現がある。かれら原住民はほんとうに尊敬すべき人々だと思った。その、かれらの美しくて高みのある精神を伝えようとするあなたの思いが、ぼくにも伝わり、新しい見方を持った作家の出現を感じました。
(以下、省略)
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