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News Item 20051217m2
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海樹です。
コッタジについて、韓国の労働文化運動について少し書こうか?と思いつつ、時が過 ぎていきますが、小分けにして何回か書いてみようと思います。

コッタジ、その1

 韓国の労働運動と言えば、10万人規模の集会やデモ行進が行われ、労組全体の組 織率こそ決して高くはないものの、日本とは比較にならない活気を呈している。デモ 行進にあたっても、音楽あり、演舞ありと様々なアピールが行われている。その中心 的役割を担ってきたグループの一つが、今回来日した、民衆歌謡グループ「希望の歌 ・コッタジ」だ。

 コッタジは現場の労働者を応援する労働歌をうたい、平和の歌をうたい、現代に生 きる人間に迫ってきた。結成11年を迎え、当初のメンバーとは代替わりしたとはい え、たたかいの歌を脈々とうたい継いできた。コッタジは、言わば労働者とともにあ る労働者の応援団と言ってもいいのかもしれない。  日本にも所謂“応援団”が存在し活動を続けている。しかし、明確に労働者を支援 するという立場を打ち出し、労働組合と手をとって共に歩んでいこうという類のもの は私の知る限り存在していない。韓国の民衆歌謡グループは、労働組合に出向いて いっては、歌唱指導と称する労働歌の普及活動をおこなっている。歌にユルトン(律 動)という振り付け(見た目は、空手の演舞と、ステージパフォーマンスの中間的な ものとでも思っていただければいいかと)をしたりして、歌の躍動感を増幅させ、労 働者同志の連帯感を強めようと試行錯誤しながら努力を続けている。

 最近、日本でもビラをまくと逮捕されるようになってきたが、韓国では、労働運動 に関わる文章などは自由に配布できない時の方が遥かに長かった。非合法活動として 労働組合(もちろん今は合法組織だが)を組織するには、文書以外のコミュニケー ションも必要不可欠であり、歌や身振りで集会や行進を指揮していくこともあったよ う。そんな事情からか、歌は単純明快なものが多い。“団結”“闘争”の繰り返しな どという歌詞は音楽ではない、軍隊のようだと言う方も少なくないが、それは、何十 万人という集会に集まってきている最後部の労働者にも、今、何をしているのかを文 書の代わりに明確に伝える必要性があるという側面がそうさせたとも考えられる。韓 国労働歌の一部の歌には、歌の側面の他に指示の側面が加味されている特殊性がある ということを頭の片隅において聴いていただければと。鑑賞用の音楽とは根本的に性 格が異なると言った方が良いのかもしれない。あるいは音楽がたたかいそのものだっ たと言っても良いのかも知れない。

 コッタジ公演を日本でおこなうたびに、「コッタジの声量に圧倒される」というよ うな感想を耳にすることが多いのだが、その理由は、上記のように、10万人からの 労働者全員に向けてのメッセージを伝えなければならないという環境が、コッタジ自 身を鍛えているからなのだろう。歌う程に声は磨かれていっているのだろうと思え る。  人間の声は、他の筋肉同様、使えば鍛えられてのびるものなのだ。私がセミプロで 司会をしていた頃、担当教諭から、人間の声量の可能性についていろいろとレク チャーしていただいたことがある。人間で一番大声がでるのは誰か?という質問など されたことがあったが、その答えはというと、意外かも知れないが、“赤ちゃん”な のだ。小さいからだから全力で絞り出す泣き声は、生きようとする叫び声であり、雑 音を突き破って母親の耳に届こうとする。人間が持って生まれた能力は大きいものな のだ。所が、私たち大人は、成長するに従って能力を失っていっているのだ。本来は もっと力強いものであるはず。大人の肺は赤ちゃんよりは確実に大きく育っている。 生まれた時の生きようとする叫び声を取り戻す事も必要なのではと思う。コッタジの 歌声は、人間本来の歌声に近いように私には思えている。だからこそ、感動するのだ ろうと。それに比べて、私の声はというと、20年前と比べて、拒食症でガリガリに なったように干涸びてしまった・・・。聴くに耐えない声は、死に行くゆで蛙のよう で自分でもいささか腹が立つ。

 3年前、幸運にも私は仁川労働文化祭に招待され、労働文化祭をじっくりと体験す ることができた。シンポジウムでは理論検証のための意見交換、情報交換がおこなわ れ、音楽堂では民衆歌謡の歌手が次々に登場し、ホールでは、映画、演劇、漫画とあ らゆるジャンルの創作が発表されていた。外ではちょっとした運動会のようなマス ゲームが組まれていて、手を取りながら、チャンゴのリズムに乗って歌い踊るひとと きがあったりした。小学校のフォークダンスの時、好きな子の手に触れてドキドキす るような、そんな感覚を思い出させてくれるような雰囲気に包まれていた。労働文化 祭は、組合に限定することなく、地域に開かれ、近隣の人々と一緒の楽しいものに なっていた。古き良き田舎の小学校での運動会か文化祭のような印象を持った。

 昼のプログラムが終了すると、夜は焼肉屋さんでのパーティーとなったりする。日 本の2次会、3次会と同じようなものだった。ただ、日本と違うのは、ここでも歌が 主役ということだ。日本では自己紹介は演説か?と言った感じになりがちだが、ここ では、一人一曲うたうのだ。どんな歌でもいいから、とにかく歌うのだ。歌うと宴は 最高潮へと盛り上がっていく。そして、最後は、皆で何かを歌って締めくくる。大 概、候補曲が決まっているようなのだが、このときは“岩のように”を皆でうたっ た。焼肉の煙を歌声で吹き飛ばしながら、「大地の岩のように生きてみよう!雨風に 打たれても、大地の岩のように生きてみよう!」と肩を組んでうたうのだ。その光景 は、さしずめどこぞの幼稚園の発表会か?と思ってしまうくらいの大らかさを持って いる。どこか甘い、雨上がりの恋のような香りがした。昼間の闘争の雰囲気とは、太 陽と月ぐらい、まったく雰囲気が違うのに驚きが隠せなかったのをおぼえている。民 衆歌謡の歌が多面性を持っていることを、この時始めて実感したのであった。夜の民 衆歌謡は日本の演歌やフォークソングよりも情緒的かもしれない。

 日本では労働運動というと、演説一本槍で、これはこれで結構なことなのかもしれ ないのだが、韓国の労働運動は表現手法だけをとって見ても、多面性、重層性をもっ て行われている。それ故、仮に運動のある一面が弱くなったとしても、他の一面でカ バーできるという重層構造が運動の継続性を担保しているようだ。日本の場合は、一 面性の傾向が強いので、勝つ勢いのあるときはよいが、一度攻められると総崩れに崩 れてしまう。  生物はモノカルチャーには弱いという側面をもっている。雑菌の中でもまれて育っ た生物は強い生命力を持つが、無菌の温室で育ってしまうと、雑菌一つで命を落とし てしまう。作物で言えば、同じものを延々とつくると連作障害を起こして枯れてしま う。人間のコミュニケーションも似ている。演説一本では弱い。人間は多面性があ り、多くの交流を経ながら社会を成熟させてきている。  コッタジの魅力は、労働運動一直線でありながら、多様性を保っているところなの ではないかと今のところ理解している。

cubacomm@mail4.alpha-net.ne.jp
Mori Miki
杜 海樹(片柳悦正)


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