本文の先頭へ
LNJ Logo 名古屋哲一の月刊エッセイ(最終回)
Home 検索
 


●郵政首切り25年・名古屋哲一の月刊エッセイ(最終回)


当初は「正月のごあいさつ」の予定でしたが、遅く遅くなってしまい・・・

寒 中 お 見 舞 い 申 し 上 げ 候
                          2008年 1月末
           名古屋哲一<なごやのりかず>
          (郵政4・28元免職者/郵政ユニオン東京地本・多摩)

  <註>  この一文は、昨年末に「年賀状」と「毎月の投稿文」とを兼ねて
の、効率化(手抜き)計画のもとにしたため始めました。しかし諸般の事情によ
り・・・執筆途中から書き足し継ぎ足しが始まってしまい、遂にこんな超長文に
なってしまうなんて! 一体誰が読むんだろう?・・・「寒中お見舞い」と「投
稿文」へと変身してしまいました。「レイバーネット・コラム欄」08年1月末
号にはこの超長文(1ヶ月遅れ記載陳謝)を、「未来(郵政ユニオン九州地本機
関紙)」07年12月末号には長文(舌足らず記載陳謝)を、投稿・掲載しても
らっています。

【なぜ28年も続けたの?】

 “自己紹介”めいた事柄を、綴らせてもらうことにした。これが最後の投稿文
なので、従って今後こんな事を書かせてくれる所は無くなるので、そして皆さん
とは長いお付き合いをしてもらったので<普通ならば“自己紹介”は初めにする
ものだが、何せ、誰も予測だにしなかった「28年争議で大勝利」という珍しい
話でもあり、従って、“自己紹介”も普通ではなく最後にするという珍しい事に
なるのであった。ついでに付記すると、大勝利の内容も(不十分な点は多々あれ
ども)「原告7人全員の『原職復帰』、賃金や年金等の全期間『回復』」という、
近年争議では珍しいものだった>。

 「28年間も、国と大労組を相手に、闘い続けられたのは何故?」と、よく質
問された。客観的諸条件と主体的諸条件との両方を吟味して数え上げるなら、長
い長い回答になるだろう。長い長い回答をする代わりに、ボクは、「28年間も、
よくマア飽きもせず、支援し続けてくれたのは何故?」なんていう「回答」をし
ていたのだが、この「回答」よりは今回の“自己紹介”文の方が、多少はマシな
回答を含むことになると思う。

 この28年間、けっこう珍しい体験の数々であったとも思う。だが、真に珍し
いのは28年争議自体であって、この28年間誰しもがそれぞれ固有の珍しい体
験をしてきたのであり、ボクの個人的体験自体はその珍しい中の一つに過ぎない
とも思う。

【幸せな誕生とルーツ】

[0歳頃]<1950年頃>。
 “自己紹介”ともなると、その歴史、そのルーツから始めるのが丁寧なようだ。

 「最初に聞いたウェルカム」を中島みゆきが「リメンバー」と歌いかけるので、
仕方がない、彼女にも「支えてもらった」恩義があることだし、思い出してみる
ことにした。

 それは、侵略戦争の敗戦から4年後、蛙やトンボがまだそこら中にいた[19
49年11月]の東京中野区でのことだった。まずはお産婆さん、八百屋さんを
やっていた母と父、そして一人の姉から(たぶん当時常駐してくれていたはずの
祖母からも)「最初に聞いた」のだった。でも、一人の弟はちゃっかりと聞かす
側でなく聞く側へと回り、「かわいい可愛い」と溺愛してくれた“前の(家の)
オバサン”はまだ引っ越して来る前だったので、二人からの「ウェルカム」は聞
きそびれてしまった(何故オバサンが「かわいい可愛い」と言ったのかというと、
ホントにカワイイお子さんだったからだ)・・・この当時、八百屋のオトーサン
は、土・日・祝日休みもなく大八車で新宿の青果市場へ往復していたし、八百屋
のオカミさんは、常連のお客さんが「嫁姑問題」など愚痴る相談相手にもなって
いた。

 ルーツをさらに辿ることにする。父母の祖先はというと、祖父母であり、祖父
母の祖先はというと、ひいじいさん・ひいばあさんであり、その祖先はというと
・・・といった具合にずっとさかのぼっていくと、とても「由緒正しき家系」の
原点に行き着く。20万年弱前に東アフリカで暮らしていた「ミトコンドリア・
イヴ」さんだ。ボクたちホモサピエンス(現生人類)は皆この女性の子孫だそう
で、君もボクもアナタも私も、人類皆兄弟姉妹! 幸せなことだ。

さらにルーツを掘り下げたい。500万年程前にチンパンジーやボノボさんと
枝分かれし、5000万年程前にゴリラさん等と枝分かれしなんていう直近の話
は飛ばして、祖先の哺乳類とか祖先の脊椎動物とかも省略し、一気にプランクト
ンとか菌類とかの世界も駆け抜けて、38億年程前の地球上での生命誕生に行き
着く。さらにさらに、46億年程前の地球誕生、そして140億年弱前のビッグ
バン。このビッグバンで発生した物質が、はるか宇宙の数千億の銀河団も、ボク
の身体の60兆個の細胞も作っている。

 ついでに言うと、ヒトの受精卵1つが生まれるのに染色体の組み合わせは64
兆以上とのことで、世界人口67億人の約1万倍、皆が皆かけがえのない生命体
なのだ。それなのに、世界人口の3分の1が極貧情況におかれていても、知らん
ぷりの兄弟姉妹が多い。

【幸せなご幼少期】

 そして[10歳前後]<1960年前後>。

幸せな御幼少期、イイ子をやっていた。イイ子を演じるという不幸ではなく、
イイ子そのままでいてよい、ノホホンとしていてよい幸福な環境だった。

 どのくらいイイ子だったかというと、小学校高学年の教科書に載っていた宮沢
賢治の詩「雨にも負けず、風にも負けず〜欲はなく決して怒らず〜東に病気の子
供あれば行って看病してやり〜そんな人に私はなりたい」を暗唱し、「そんな人
に私はなるんだ!」くらいに思っていた(今では「そんな人に誰かなってほしい」
くらいの所だ)。

 何の疑問も持たず素直にこの様に思えたというのは、世の人々皆も多かれ少な
かれ同じように思っていると、無前提的な信頼を人々に抱ける環境に育ったから
だった。個人的努力や荒波との格闘の経験等によって得た思いとは違う。

 周囲の大人や子供らには、体罰や脅しによる強制、抗弁や内心の自由の封殺、
八つ当たりや逆ギレ、ねたみや嫌味、責任転嫁や居直り、自己顕示の誇張やおべ
っかコビ売り、不当な扱いや不平等な処遇、利己主義や足の引っ張り合い、憎悪
や悪口、噂流しや他者の無視否定、偽装やねつ造、約束違反や裏切りなど、要は
不合理・不正義・横暴な人は日常の中には居ず、もしくは、それらから防衛隔離
していてくれる大人たちがいたのだった。当然これらに対する警戒心や免疫力は、
不要なものだった。

 「李下に冠を正さず」を守る人は周囲にいなかったように思う。冠でも帽子で
も、正したいと思ったら李下でもどこでも正し、それで李の実が盗まれることは
なかったのだから、「冠を正して」いるのを疑ったとしたら、その人の方が「疑
り深い人」と非難されてしまう、そんなホンワカしたご幼少期だった。“コンプ
ライアンス(法令順守)”、今の世では、郵政当局等々が“命令と服従”“管理
統制”を強めるほどに違反がはびこっていくけれど、当時ボクの周辺では、命令
も管理もないぶんだけ、当たり前のこととして行われていた。

 家庭環境、地域社会、「戦後民主主義」教育とその時代等々、ラッキー!と言
う他無い。当時は当たり前と思っていたが、今思えば「レアケースに感謝!」だ。
子供たちは未来に夢を持てた。特にボクの場合は恵まれていて、ノホホンの楽天
主義の脳天気が許された。

 この様なイイ子が、なぜ現在の不良中年となってしまったのか? 物語は、ミ
ステリー味をおびていく。

【幸せな青年期】

 [誕生から20年前後]が経った<1970年前後>。

 1968年春の高校卒業後、障がい者解放運動、ベトナム反戦、反体制運動に
加わり、今もその思いは続く。当時は世界中の若者が反乱を始めていて、親不孝
も顧みずに突っ走ることも、「連帯を求めて孤立を恐れず」も当たり前だと思っ
ていた。「世のため人のため自分のため」に体を張る人々、無前提的信頼を寄せ
て良い人々が、世界中にいっぱい溢れていた。

 ただ、当時は「明日世界が変わる。人類皆兄弟姉妹が、自由と平等と信頼のう
ちに暮らし、搾取も差別もない社会が誕生する」と信じていたが、今は「明日や
明後日では変わりそうもない。せめてボクらの世代の経験や教訓や反省を、若い
世代にバトンタッチしておくことだけはやらなくっちゃ」と、かなりトーンダウ
ンしている。

「人類の存続のためには地球生態系を救わなければならない。そして地球生態
系を救うためには、一番手っとり早いのは、人類が絶滅することだ」なんていう
シニカルな半分冗談も、今は口にする。夢見る急進主義の昔には考えられないこ
とだった。

  【現在ある技術水準でも地球温暖化等々は克服できる。逆に、ナノテクノロ
ジーや遺伝子操作等の技術で、人類の手に負えない事態を引き起こすこともでき
る。技術を活かす主体が、利潤追求を至上命題とする社会システムか否かが基本
的問題だ。世界の年間軍事費は123兆円で、これを1年間0円にするだけで、
餓死を防ぐ食糧援助年間11兆円・識字初等教育1兆円・安全な飲み水と下水整
備1兆円等をしても莫大なお釣りがくる】 

我が家には、家出人や、「ボランティアグループ・いずみの会(68年〜)」
とか「府中療育センター移転阻止闘争」で1年9ヶ月間の都庁前テント座込み生
活をする重度身体障がい者仲間などが、けっこう来た。この第一テント座込み
(72年9月18日〜74年6月5日)の20人程の連中は、障がいの有無や年
齢差や先輩後輩に関係なく皆タメ口をききあい、皆ホントに兄弟姉妹の感覚、多
くが無前提的信頼のノホホン人間、助け合うのが当たり前だった。この闘争は、
障がい者自身が運動主体として登場していく黎明期を担ってもいた。別にまた、
大学・高校全共闘だけではなく中学全共闘の家出人までいて寝泊まりし、中には
面白がって八百屋さんのお手伝いをする者もいた。両親には家出人との認識はあ
まりなかったとはいえ、仲間の出入り自由の家は、当時は当たり前と思っていた
が、今にして思えば当時でもレアケースだった。

【幸せな人生観・世界観】

 バリケード封鎖の大学構内でも、集会参加中でも、マルクス、エンゲルスやレ
ーニン、トロツキー等の原典・古典に目を落としていた。溢れる疑問、真実が知
りたかった。一口にマルクス主義といっても幾つもの潮流・数百派に分かれ、軍
団的束縛的イメージや優しい人間らしさのイメージなど、相反する理解千差万別
なのは、そうそう他に比するものはないだろう。

 「商品の価格の中に、労働者の賃金分と、労働者が賃金以上に創りだした剰余
価値=資本家の搾取分とが含まれる〜資本家は最初に資本を投下するが、資本と
は過去に蓄積された搾取分に他ならない〜奴隷制や農奴制では搾取が目に見える
が、賃労働制ではこの様に搾取が覆い隠されている」「商品生産を“公正に”な
すだけで、支配の資本家と被支配の労働者との階級関係も同時に再生産されてい
く」「資本主義的生産は、少数の一方に富の蓄積を、多数の他方に窮乏の蓄積を
必然化する〜それはまた恐慌も生産する〜それはまた階級対立も生産するし、革
命を宿していく」なんて目から鱗だった。

「人類史は、原始無階級社会から階級社会(奴隷制・農奴制・賃労働制)を経
て、高度な生産力を基礎とした無階級社会(共産主義社会)へと進む〜歴史とは
階級闘争の歴史である〜経済的な機構・生産諸関係(下部構造)に人間の意識や
文化・法律・政治等(上部構造)が規定される人類の前史から、人間の意識的主
体的活動が逆に社会を造形する人類の後史(共産制)へ〜それは、疎外された労
働から自己実現の労働へ、自然の人間主義と人間の自然主義との実現を意味する」
こんな歴史を今歩んでいるなんて、ラッキー!

 「帝国主義の段階へ19世紀末より突入した〜産業資本の支配から金融資本の
支配へ、少数の大資本による独占段階へ〜世界的に植民地は分割され尽くし、植
民地の再争奪戦=世界大戦の時代となる〜プロレタリアートは各国別の利害(各
国帝国主義ブルジョアジーの利害)に分断されずに、国際連帯で立ち向かう。反
戦平和。敵は自国内にいる。戦争を内乱へ〜独占超過利潤と植民地超過利潤を使
い、敵は労働者の一部を買収する。資本家の手先となる労働貴族・労働組合官僚
・戦争容認の労働者党などが発生する」この“帝国主義論”の全てを、普遍的な
“原理論”として扱うのではなく、大量生産大量消費や新植民地政策等の時代以
前=第二次世界大戦以前の“資本主義の一段階論”として把握し直し、新たに後
期・現代帝国主義論を編むことが必要、との近年だされてきた意見に賛成だ。

 「現在という時代は、資本制から共産制への過渡期だ〜共産主義社会(=社会
主義社会)は、世界的・国際的規模でのみ実現する〜現存の“社会主義国家”は
社会主義ではなく、まだ生産手段を資本家から奪い返した段階の“労働者国家”
だ〜ソ連などは、この労働者階級の国有財産を官僚が占取してしまった“官僚的
に歪められた労働者国家“だ〜生産関係(下部構造)において支配階級となって
いる資本家階級は、形式的民主主義の政治的自由等を許す余裕をもつが、経済的
支配の階級基盤がない官僚層は、支配するためには政治的文化的な統制強化に頼
らざるを得ない〜労働者階級が官僚層を取り除く政治革命を成功させなければ、
国際的資本家連合が資本主義復活へと歴史を後戻りさせるだろう」スターリン主
義はマルクス主義=レーニン主義の対極に位置している。唯物論を人間の意識活
動を無視するタダモノ論に歪め、弁証法的な多様性も命令一律に置き換える。
       *       *       *
 以上の考え方が、争議や諸運動を続ける上でのベースになっていた。特に、国
家相手の郵政4・28反処分では、「世直し」や「労働者政府の樹立」といった
観点を常に携えておく必要があった。

 ローザもトロツキーもゲバラも皆、道半ばで殺された。ボクらもいつか殺され
ることになりそうだ。でもこの残虐な資本主義体制のもとでは、仕方のないこと
だ。ボクは決して勇気あるタイプの人間ではない(注射の針も、歯医者さんも、
とても怖い)。でも、楽な道を選ぶのが好きだった。

 「ベトナムで毎日殺されている子供たちに較べたら」という、個人的なことな
どもってのほかの、それどころかあらゆることを後回しにさせ、大したことでは
ないとしてしまう自己否定の論理。それに、殺されている子供たちを、見て見ぬ
ふりしてうじうじ生きるのは、精神衛生上もよろしくない。踏ん切りをつけてし
まった方が、うじうじの一切から解放された楽な道だった。ノホホンの楽天主義
が許される環境にあったボクは、ノホホンの楽天主義でもって、当たり前のこと
として、楽な道を行くことにした。

【幸せな郵便職場活動期】

中小民間企業で、残業代計算の労基法違反を労基署告発したりの体験はしたけ
れど、まだまだ世の中のことも人間のことも、ほとんど解ってはいなかった。

 1976年4月、26歳のボクは東京八王子局の郵便屋さんになった。全逓八
王子支部青年部常任委員や副部長をしたボクは、毎日のように管理者を取り囲み、
年休差別や理不尽命令に大声で抗議する10数人〜数十人の輪に、喜んで参加し
た。欠かさずに参加した(全逓が少数派の職場ではイジメ差別が倍加された。1
7年間に及ぶ郵政マル生合理化は、200人もの組合員を自死へと追い込んだ)。

 地域共闘では、トッパンムーア・教育社・日野自工・光の家・沖電気等の争議、
立川・横田反基地闘争や三鷹革新市議選挙、狭山差別裁判での西八王子局前ハン
スト突入、三里塚闘争に連帯する会・三多摩や労働情報読者会等々、夜中の12
時前に帰宅することは少なかった。

 78年3月26日には「三里塚空港開港阻止、包囲突入占拠」闘争で、包囲者
数千〜1万人、突入者千人以上、そして占拠された管制塔に赤旗が翻る見事な勝
利。ボクも第8ゲートから“大衆的突入”をし管制塔の真下まで行った。“労農
連帯で政府打倒”のため体を張るのは「当たり前」と、八王子局からもバイトを
含む4人が当日参加した。「名古屋は他の仲間を突入させて自分は安全地帯にい
た」という流言飛語の職場キャンペーン・職場八部攻撃をした、現場参加もして
いない一部の「狭山・三里塚派活動家」は、その後全逓労組本部と共に変節して
いった。

 三里塚で逮捕されクビになった仲間は、全国各地で解雇撤回闘争を何年も粘り
強く闘ったが、職場を組織することには失敗した。ボクも含めて、急進主義闘争
の活動の在り方の限界だった。これでは「世直し」はできなかった。

  【当時“4・28被処分者と三里塚被処分者の連帯”スローガンや、“全逓
産別三里塚救援会(80年結成の「労働情報全逓産別交流会」の前身)”“八王
子教組内の逮捕者守る会”運動等々も行った】

 そして同年12月から約2ヶ月間の反マル生越年闘争=「総評最後の全国的大
衆運動」を体験できたことは、これまたラッキーなことだった。労働者が職場の
主人公であり社会の主人公であることを闘いの日々の中で実感したボクらは、顔
を輝かせ連帯感を深め胸を張っていった。あの「労働者の情景」は素晴らしいも
のだった。

【不幸だけでない4・28処分】

 [30歳の頃]<1980年頃>

 入局から3年後の79年4月28日、「懲戒免職処分58人」の中の一人に、
同じ怠業行為を30万組合員がしていたのだが、ボクは選ばれた。国家のなした
政治的な4・28報復処分、闘争指導部ではなく現場の若い組合員の首切りとい
う、前代未聞の無茶な新処分政策だった。全国8183人への大量処分は、「左
派」東京地本へ集中していた。

 それからわずか半年後、全逓本部は当局と「10・28労資協調確認」を現場
を無視して結んだ。そのまた半年後からは、当初皆が反対の声を上げた「免職者
の再配置=強制配転」を強行しだした。これに最後まで反対し続けたボクは、全
逓本部・地区本部からの「全逓江ノ島会館配置で旅館業務の命令」「自宅待機命
令」等の後、81年1月から「犠牲者救済制度の給与(保障)支払い」を見せし
め的に打ち切られた。

 それでチリ紙交換などをしながら、(夜中でも出入り自由が許されていた旧
「立川反戦市民連合」や旧「三鷹革新連合」事務所の印刷機を借りての)個人ビ
ラの毎週の局内局前配布や三多摩全局の配布・訪問等をしていた。組合費を払い
続け、「八の日」組合行動への招からざる参加や、全逓各種大会の代議員選挙立
候補なども行った(またこの時期には、国分寺で昆布卸問屋の運転手アルバイト
もしたが、この会社へ2人の公安刑事が「彼は郵便局を首になった人だよ」と、
わざわざ言いつけにきた。こんな暇なことをしているから「税金泥棒」と呼ばれ
るのだ)。

 全逓一家主義は、全逓組織からのハミダシ分子を許さない体質だが、一年間も
個人ビラ配布を続けていると、現場の組合員とは(ごく一部を除いて)気軽に言
葉を交わせるようになった。現場労働者が本来もっている暖かさと、本部・地区
など組合官僚の冷たさと。まだまだ、全国の仲間と力を合わせて組合官僚をやっ
つけ(再配置拒否の運動もその一助とし)、まともな労働運動を創り出して郵政
省を攻めるという、ノホホン楽天主義の展望は健在だった。

 それで、まなじりを結することもなく“当たり前”のこととして、反処分を続
けた。ボクは何かを“率先してやるタイプ”でもない。ただ“無前提的な人間へ
の信頼“故に、未来への希望のみしか頭の中にはなく・・・今考えると不思議だ
・・・恐れを知る能力が欠如していた。

 捨てる神あれば拾う神ありで、「4・28名古屋君を守る会」を八王子地域の
人々が中心になって作ってくれた。無料の会議場所は、職業病相談や障がい者運
動にも傾注するお医者さん等の八王子中央診療所の2階で、弁護士さんも手弁当
でというだけでなく、「守る会」の会員となり昼飯をおごってくれる等しながら、
86年人事院不当判定後の、東京地裁への4・28個人提訴の時にも全面的に面
倒を見てくれた(組合として提訴の44人免職者公判との併合を求めたが、全逓
本部だけが「併合断固反対」を続けた)。

 「守る会」等は善人とか奇特な人とかの集まりであり、幼少期のボクの「無前
提的な人間信頼」がなかなか覆らなかったのも、致し方ないことだった。

  【全逓本部が4・28処分からしばらくしてだした“お達し”は「免職者同
士で勝手に集まるな」等ヒドイもので、ボクら免職者20人程は90年まで、2
ヶ月に1度程の非公然“懇親会”をもち勝手に集まった。全逓東京西北地区に再
配置されていた免職者数人、つまり45人原告中の数人が、自ら原告の“4・2
8東京地裁公判”に傍聴参加した時、組合業務を放棄しての勝手な傍聴だとして
“賃金カット”するというヒドイ事件もあった。さらにこの“賃カツ”をした下
手人が、西北地区役員に成り上がっていた4・28免職者の一人だったというヒ
ドイおまけが付いていた】

  【本部による90年“8・22文書”と共になされた“お達し”は「自民党
金丸副総裁と社会党田辺書記長とのボス交でナシがついたから、全員が提訴を取
り下げろ、そして郵政省採用試験に受験すれば答案用紙が白紙でも合格が保証さ
れている。受験したくない者と40歳以上で受験資格のない者には、儀救特例加
算金1千万円とか就職斡旋とかをする」というヒドイものだった。14人の受験
者全員が不合格にされたが、本部は自・社両党(のボス)にも当局にも抗議の声
一つあげず、91年6月末をもって、免職者全員の儀救打ち切り・組合員権否定
というヒドイ事をした。以降、全逓大会の全国各地会場でのビラまき申入れ等の
他、4・28ネットは毎年4月28日に全逓会館へ抗議申入れに行ったが(連合
メーデーが身勝手にも4月29日に変更となってその前日準備が必要となるまで
は)、本部全員逃亡でいつも真っ暗モヌケのカラとなっていた。ヒドイというよ
りも情けない話である】

【提訴取り下げはペテンと騙しによるものだとして、2種類の”提訴取り下
げ無効裁判(原告3人、及び原告1人)”が行われたが敗訴となった。この内1
種類は、時効期限のない“4・28処分無効確認裁判(原告1人:池田)”を開
始し、提訴取り下げをしないで継続していた“4・28処分取消し裁判(原告6
人:斎藤・黒瀬・神矢・得差・庄野・名古屋)”との併合審を実現した】

【幸せな出会い&別離】

80年の、八王子にある障がい者施設で働く女性との出会いは、「人も羨む至
福至高の出会い」だった。83年に33歳のボクは23歳の彼女と「結婚」をし
て、パンの耳生活から脱却し「ジゴロ生活(友人はヒモ生活と呼ぶ)」を営んだ。

 ただ、85年秋からの「全国労組連」と、更にその後の「10月会議(10月
集会=全国労働者討論集会)」等の薄給事務局一人専従で事務所泊込みなど・・
・6箇所程の事務所のカギを持ち歩いていた・・・あまり家に帰らない「ジゴロ」
だった。でも、新橋の「労働情報」事務所に同居していたこの組織は、ボクにお
酒を覚えさせただけではなく、国鉄闘争や全労協結成にもかなりの尽力をした。
社会的労働運動を目ざして、当時の主要な労働運動課題のほとんどすべてにコン
タクトをしていた。そしてまた、左派労働運動の結集体である「10月会議」等
も、世の中を良くしていこうという善人の集まりだった。

  【「全国労働者討論集会」は、77年に“反JC”を掲げて第一回“大阪集
会”から開始。これを機にして、「労働情報」の発足や全逓内左派の総結集会合
が行われていった。その後「労働情報」運動などを基盤に、郵政全協も参加した
「全国労組連(労働戦線の右翼再編に反対し、闘う労働運動を強める全国労組・
活動家連絡会議)」が結成され、これが衣替えをして88年2月結成の「10月
会議(連合反対、明日の労働運動を担う、労組連帯会議):前田裕吾代表」とな
った。86年2月の第十回“大阪集会”の後、87年10月に場所を東京へ移し
“闘うナショナルセンター形成”を掲げ1500人での「全国労働者討論集会
(“10月集会”):市川誠元総評議長代表」を開催、以降毎年「10月会議」
を事務局に討論集会を継続した。「10月会議」はその後、「労働運動の社会的
発展をめざす共同センター(93年8月28日〜95年7月30日)」へと移行
した】

  【92年7月の参議院選挙・東京選挙区に“反PKO(自衛隊派兵)・戦後
補償・憲法9条”を掲げ、内田雅敏弁護士が立候補し惜敗した。客観的には、政
治再編と左派総結集による大衆的な新労働者党形成にも連動していく闘いだった。
選対本部長は田英夫氏、労選は東京全労協で国労東日本本部気付の連絡先だった。
「10月会議」もボクを労選へ張り付き派遣し、各所で「連合」推薦等とも競い
ながら闘い抜いた】
       *       *       *
 結婚一年後くらいの時、彼女は三里塚(産土参道)現地のデモで不当逮捕投獄、
迎えにきた「地方の名士(ナント特定郵便局長さん)」の連れ合いさん(母親)
と公安刑事にサンドイッチにされ、広島の実家へ連れ帰られた(この時彼女が
「拉致」された車を、友人と共に自家用車で千葉県郊外を追走、ほんのちょっぴ
りカーチェイスの真似事も体験した)。そして彼女が親族を説得して数日後に帰
京した際には、心配した母親がついてきた。彼女と母親が西八王子駅に降りた時、
彼女の職場同期の、活動家でもない女性7〜8人が「お帰りなさい」と書いた横
断幕を広げて迎えた。当時は当たり前のようにも思えたが、今思うとかなり劇的
な光景だった。警察から嘘デタラメを吹き込まれていた母親は一安心、とても良
い人なのだが、ボクのことを良い人とは思ってくれないままだった。

 86年9月に、ボクの行く末を心配し続けてくれていた父親が、心配を抱いた
まま胃癌で死んだ。親不孝を続けてきたボクがした数少ない例外行為の一つが、
今にして思えば、彼女とパートナーになったことだった。「新しい娘」は父を好
きになったし、父も「新しい娘」を好きになった。父母と彼女の関係が良好なこ
と、姉弟家族も含め皆で旅行に行ったりしたことなど、ボク自身は何の努力も払
わないまま、ちょっぴりだけ親孝行をした。

 ついでに言うなら、ボクの父母・姉弟家族の誰もボクを「長男」とは思わず、
当然ボク自身も「長男」の自覚はなく、皆が「ナントカ面倒を見なければ」「支
えなければ」という対象と見ていた。結婚指輪に全く関心のないボクらに代わっ
て、義兄と弟が50円ずつ出し合い祭りの屋台で指輪を買ってきて、彼女はとて
も面白がった。その他カンパをしたり物販を買ったり服をくれたり、争議を続け
るには理想の環境だった。ボクの争議が一区切りの終結をした今、この理想の環
境を活用しないでおくのはもったいないので、是非とも甥っ子と姪っ子に争議生
活に入ることを勧めたい。

 91年3月末日のキリのよい日に「離婚届」提出。別れたくないボクを置いて
外国へ飛び立つ5月5日に、互いに思いやりは持ち続けながらの「人も羨む至高
の別離」を、涙ながらに体験できた。ただ、共同生活の中身まで「至福至高」だ
ったら「至高の別離」を実現できなかったので、共同生活が「至福至高」とまで
はいかなかったのも、致し方ないことだった。彼女はボクよりも早く、自分の人
生の「再生と自立」へと、しなやかに、勇気ある踏み出しをした。彼女もまた、
ボクの「無前提的な人間信頼」を増幅させてしまうような人だった。

 この失恋は、底なしの悲嘆、強烈すぎる喪失感、自己崩壊の感覚をもたらし、
数年間ボクをのたうち回らせることになるのだが、「清く正しく美しく」の「至
高の別離」だったことには変わりない。ただ、「清く正しく美しく」なくてよい
から別れない方が良かったと後悔しても、それは後の祭りという奴だった。

【幸と不幸混在の激震期】

[40歳前後]のことだ<1990年前後>。

 (87〜)89年から91年の間、それまでのボクが依って立っていた地形が
激震し見慣れぬ風景が現れた・・・バブル期もその崩壊も個人的には無関係だっ
たが〜総評解体=連合結成、全労協と全労連結成〜ベルリンの壁と冷戦構造の消
滅・新自由主義の時代へ〜第4インター日本支部の崩壊と分岐への歩み・深刻な
自己総括〜彼女との離別・深刻な自己総括〜全免職者の全逓からの首切り・反処
分闘争の再生と自立自闘の開始・郵政全労協(現郵政ユニオン)等の結成など。

 「40にして惑わず」ではなく、40歳にして初めて惑いを開始したのだった。

 「ボクよりも百倍考え深いだろう人たちに難しいことは任せて、こつこつノホ
ホンとマジメをやってさえいれば、世の中はそのうち良い方向へ向かうのだろう。
彼女との恋も破綻するハズがない」との思考パターンは、通用しないものだった。
主観と客観との一致の基にやってきたつもりが、主観のとんでもない誤り、主観
主義、事前に何も気づけなかった鈍感さを思い知らされた。困惑と混乱・試行錯
誤・自信喪失の第一歩を踏み出した。

COカウンセリングを、一年間の国外ホームステイから戻った彼女が紹介して
くれ、一時参加した。これは、カウンセラーとクライアントが対等に交代しあっ
て行う、「テッテテキ根底的人間信頼」の共有に基づいたカウンセリングだ(“
社会的差別や抑圧等に立ち向かっていける自立的個人”への気付きとも連関して
いく)。「“感情を意識の下にコントロール”するのではなく、“感情の解き放
ち”により意識がクリアーになる」「“自己否定”ではなく“自己肯定“」なん
ていうのは、すさまじいカルチャーショックだった。

 「〜でなければならない」「〜すべき」から「〜をしよう」「〜をやりたい」
への転換。「疲れてもガンバル」のが当たり前から、「疲れたら休む」のが当た
り前への、コペルニクス的転換。「間違ってはいけない。失敗したら迷惑をかけ
る」から「間違わなければ解らない、たくさん間違えよう。失敗しない人はいな
い、迷惑をかけ合い許し合い助け合おう」への、賢い気付き。

 人間不信へと導く要因も多い激震でもあったが・・・全逓本部からの首切りは、
悪い人が悪いことをやったことだけのことで、モラルハザードのハシリとして絶
対許せないことではあれ、個人的な精神的打撃にはならなかった・・・、「無前
提的な人間信頼」を続行させる要因も多い激震でもあった。

 90年結成時からの「免職者7人の協議と合意に基づく運営」という確認が、
一方的に覆される等による「4・28連絡会」の「解体と変質内容での継続」。
それ故の「4・28ネット(郵政4・28を共に闘う全国ネットワーク)」の9
1〜92年結成。以降も4・28闘争と共に歩んでくれた、共同代表、事務局、
「各地4・28を共に闘う会」等、郵政の人々や地域の人々、弁護団等々、夏秋
冬物販の協力や購入・カンパや会費・裁判傍聴や裁判所攻め・全国行脚と毎年連
鎖集会・全国署名・連続講座等、そしてミニコミ各紙とビデオ・ホームページ等
の新媒体、さらに、大労組の横やり却下の東京総行動、霞ヶ関大行動や裁判交流
合宿(首切り自由実)、国鉄団結まつり出店、国際連帯(韓国・NZ・フィリピ
ン・フランス等)等々、ものすごく多数の善人が関わりをもってくれたのだ

  【郵政関連で言えば、当時の「4・28守る会」・「赤羽局・池田さん斎藤
さんと共に闘う会」・「京都ガンバロ会」等、全逓現場では支部・分会の機関名
から次第に有志・個人への移行、郵政ユニオン・郵政合同・全福郵労・郵創労・
そして郵産労の各個人・川口遊生ユニオン等、伝送便・郵政全協・郵政全国職場
交流会・郵政労働者の人権を守る会や反合研・常勤非常勤や日逓など28年間途
絶えることの無かった郵政関連諸争議・ピースサイクル等々、多岐にわたった。
また4・28関連裁判も多種に及んだ】

本当に「イイ子」から脱却して、“破れかぶれ”もできる、または、“破れか
ぶれ”でやる他ない「不良中年」へ至るのには、激震から10年程の蓄積・過渡
期が必要だった。不良中年になってやっと「あんな堅苦しい過去のボクとの共同
生活なんて、今のボクだったら一日でも肩がこって御免だが、よくまあ8年間も
彼女は付き合ってくれたものだ」と、頭ではなく実感として解ったのだった。

【不幸な忙し病】

若い時から「忙しい、忙しい」とは言ってきたけれど、[40歳前後]の「激
震期」以降は、徐々に「忙し病」という「病気」にまで発展していった。

 体力の衰えがあって徹夜続きの後は病弱状況となった。テレビや貸しビデオを
見始めるなど、無自覚的に娯楽や休養を欲し必要として無計画的にそれを取り入
れ、時間はますます欠乏した。個的な問題だとか重要ではないだとかで切り捨て
てきた諸々の事、季節感とか鳥の鳴き声とかにも心が開かれていった。さらに、
健康・散歩とか、食事・栄養・添加物とか、人間心理・トリックとか・・・「パ
ンドラの箱」が開かれつつあった。

  【大ざっぱにだが、各個人の「心理学的過程」は、一方で“自然科学的過程
”に規定され(感情的過程等−−生理学的過程−−生物学的過程−−化学的過程
−−物理学的過程−−数学的過程)、他方で“社会科学的過程”に規定されてい
る(意識的過程等−−個的な教育や環境等−−その時代の社会全般の政治・法律
・芸術・哲学など文化総体=上部構造−−生産諸関係の総体=下部構造−−生産
諸力の発展段階)と言えるだろう。各々、規定されているものは規定しているも
のに反作用を及ぼし、各々が複雑に干渉しあい、連関する・・・というわけで、
「イイ子」も「不良中年」も、また、首切り処分を乱発する人もこれに反発する
人も、このような「心理学的過程」を経ているわけだ】

 運動的には、物事の本質さえ把握・納得できていればそれで良く、具体的事象
の把握や分析などは他にお任せ、恋愛的には、生き様など本質的な点での共有が
できていればそれで良く、具体的日常的な会話や喜怒哀楽の交流は欠落でかまわ
ないという、ノホホン・お気楽・無前提的信頼お任せ・ストイック・「楽な道」
を離脱して、自分自身の頭で「具体的な事柄はその全具体性において把握」とい
う方向へ歩みだした。

 それまで無意識のうちにも抑制していた好奇心や野次馬根性が解き放たれてい
った。具体的な事柄は、めんどくさくもあるが又面白くもあって、多くの時間消
費と共に、世間知らずからの脱出を促した。「パンドラの箱」が半分ほど開いた。

 そして自立自闘を始めた4・28闘争は、やろうと思えばいくらでもやること
が出てきた。「戦略は大胆に、戦術は細心に」キッチリやるためにも時間は必要
だ。それなのに、他の郵政内外諸活動などを含め「不十分にしかやれていない」
との常にの思いは、ストレスになって蓄積していった。また世の中全体が非論理
化・非政治化の風潮へと流れていく中、それは運動内部にも討論の気薄化等とし
て波及してきた。これに抵抗するための時間は、従って意欲も、次第に失われて
いった。

  【95年1月、神田に新設の「郵政共同センター(4・28ネット、郵政全
労協、伝送便、郵政全協の共同事務所)」へ「勤務先」が移った。これも個人的
活動領域の激震であり、「従来活動にプラスして郵政内諸活動・諸事務作業も、
すべてバッチリ」との思いと、現実の未達成作業との乖離が進行していった】

   **「忙し病」の重症化**

それで遂に[50歳]<2000年>。

 軽症の「忙し病」が、重症の「忙し病」へと移行した。2000年の国鉄闘争
「4党合意問題」での、他をうっちゃっての張り付きと、これにも関連しての、
わけわからんパソコン操作タイムの開始などが契機になっていた。

 2000年途中までは、例えば「4・28ファイル」はキチッとしていた。し
かしそれ以降は、畳の上にチラシ・パンフ・資料類の紙の山ができていった。諦
めればよいものを、いつかキチッとファイリングしてやろうと大切にしていたの
で、紙の山はどんどん増えた。それでも諦めなかったので、紙の山脈を見るたび
にストレスが溜まっていった。

 「忙し病」の重症化と「不良中年」への到達とは、期を一にする。「パンドラ
の箱」が全面的に開かれた。この箱の中には、怠惰や悲観や意欲減退や不信や不
義理等々も入っていたみたいだ。

だが実際には「パンドラの箱」はもうずっと前に開かれて、箱の中身は世間様
にも運動内部にも既にばらまかれていたのだった。「悪貨は良貨を駆逐する」。
ボクのなかの「小さな親切、余計なお節介」「ありがた迷惑な保護者さん」は、
時間と自信の喪失とに比例して喪失していった。“共”のなかへ“私”が入り込
んできた。共有の努力をしてきたモノや欲望や感じ考え方等の尊重(共産主義的
な感性や責任感などの優先)に対して、私的なそれら(個人主義的なそれら)が
浸食してきた。

「1,走る前に考える人」「2,走りながら考える人」「3,走り終わった後
に考える人」と、人には3つのタイプがあるというが、ボクは「1」をやり且つ
「3」もやる丁寧な人のはずだった。ところが「忙し病」は両方ともを放棄させ、
いつのまにか「2」だけの人としてしまった。そして「走りながら」では大して
「考える」ことなどできないものなのだ。泥縄と対症療法の日常だ。「これは本
来の自分の姿とは違う」との思いでストレスは増えるが、本来とは違う姿を何年
も何年も続けていれば「違う」と言ったって誰も「違う」とは思ってくれず、そ
のうち自分でも「本来の姿」を忘れていくのだった。

 1つの作業を終えても、3つほどまだ仕事が控えている。時には4つに増えて
いる。控えている仕事の数は、本来ならもうずっと前に終わらせておかねばなら
ないのに、「暇になった時に」と将来課題へ先送りにしていたようなものを含め
れば、10以上に上るだろう。どっかりと重たい気分、構造的な時間赤字体質。
この体質改善への展望と意欲は、逆に深まりゆく体質に面くらい、少しずつ現実
逃避への欲求に席を譲っていった。

 争議は他者からの支援や親切を受けなければ成立しない。受けた支援や親切に
対しては、次の機会に、支援や親切で報いなければならない。しかし報いるため
には時間が必要であり、「忙し病」は、報いることをできなくさせるために、受
けることも恐れるようになる。しかし受けなければ、争議は成立しないのだ。
「忙し病」は、この自己矛盾とストレスとを生起する。

 同様に、新しい活動領域の拡大とか、新しい人間関係の拡大とかに、「忙し病」
は二の足を踏ませる。既存の活動領域と人間関係だけでも、既に不義理を蓄積さ
せているのに、とんでもない。運動はマンネリ化していき前進を小幅にしていく。
マンネリ化と遅々とした歩みは、さらにストレスを育む。最低限の義理を果たす
ことに窮々として、「〜せねばならない」から「〜したい」への転換などは、手
の届かない夢として遠く去っていく。去っていくものを追おうともしないアキラ
メの積み重ねは、ストレスの積み重ねになっていく。

重症の「忙し病」は、けっこう大変な病気なのだった。

だがこんなにストレスが溜まっても、プッツンしたりウツ病等までには至らず
に、もしくは至ることなく済ませられた故として、「頭の中での空想物語創りに
いそしむ症」や「映画など見て現実逃避をしたい症」(生理学的には「アドレナ
リンの分泌? 脳内麻薬の分泌?」)をやっていたのだった。でもこれらの症状
自体が多大な時間の消費となり、「忙し病」重症化の大きな一因ともなっていた。
しかし、締切を守れなくても優しい仲間のカバーや、安心して依拠できる後見人
的な支援者の存在などが助けになってくれていた。そして幼少期からのノホホン
・楽天主義の貯えと、不良中年へ変身しての手抜きテク等イイ加減さやしたたか
さも、救いになったようだ。

 それに、個々の活動自体は、仲間との楽しい時間であったり、やり甲斐のある
ワークであったりの「幸せ」といってもよい事柄だった。ただそれらが未消化な
まま、次々と押し寄せるのがとても困ることだった。

 どんなに悪いことにも良い面はある。「忙し病」は、ルーズな相手に対して寛
容な心を養う。ルーズなことをされても、カチンとくるのではなく、お仲間がい
てほっと一安心。しかしこうして、ルーズは正されることなく、世の中にはびこ
っていくのでもあった。ここでも「悪貨は良貨を駆逐する」。

【幸と不幸混在の不良中年期】

[50歳前後<00年前後>からの5年弱]、首切り撤回の予測など口にでき
なかったので、冗談などを口にしながら、不良中年は重症の「忙し病」を携えつ
つも生き続けた。

   **全逓本部**

 98年12月18日に最高裁は、全逓(現JP労組)本部相手の“儀救・組合
員資格継続裁判(原告4人:得差・神矢・池田・名古屋)”で、「組合員資格の
剥奪は違法・無効」と決定を下した。裁判証言台に経った全逓役員のデタラメさ
には改めて驚いた・・・全逓組合規約に関してさえ役員同士で言うことがバラバ
ラで、それでいて全く平気なのだった。

そして組合員権復活に伴う本部と免職者たちとの99年の交渉、まず、謝罪す
る気などは一カケラもない。これまでの嘘や誹謗宣伝など、証拠文書を突きつけ
て撤回訂正を迫っても、言を左右し、もしくは左右さえしないで押し黙ったり、
勝手に違う話題をしゃべり出したりの「鉄壁の防衛」対応だった。「へぇー、こ
の人たちはこんな“テクニック”を、全然脳ミソを使わなくても可能な“テクニ
ック”を、身にまとってきたんだ」と感心した。

 官僚的組合の内部では「組合自治」の下、民主主義否定どころか、日本語によ
る対話さえも”通信不可能”がまかり通る。道理も何もない人たちだと解ってい
たのだが、解っていてさえ、何回も何回も眼前でくり返されると、人間への不信
感というか、疲労感というか、アホらしさというか、そんなものが増大してしま
った。こんな人を相手にしていくと、こちらも“マジで怒ったり説得したり”の
情熱を失った不良中年へ脱皮しなければ、ヤッテランナイこととなってきた。

 でも考えてみれば、彼らはボクら以上に不幸な人生を歩んできたし、交渉の場
でも、ボクら以上の嫌な思いに耐えていたか、感覚麻痺の自己欺瞞で耐えていた
か、のはずだ。

  【現場組合員に本部のこの不道徳を暴露しても、皆もう遠の昔に「どうせ本
部なんぞ。気にするだけ無駄」のスタンスに移っていた。79年10・28労資
協調確認以降、現場と本部との攻防は激しさを増したが、当局の本部支援もあっ
て10年弱で決着し、更に連合全逓になってからも既に10年近くが経っていた。
また組合費問題や、「変節支部長(79年隣局の青年部長時には本部に罵声を浴
びせていた)」らも関係する郵便局舎立入問題等もアホらしさ増大物語だが、長
くなるので省略する。尚、“権利の全逓”は04年6月に“JPU”へと名称変
更し名実共に消滅、07年10月22日に第二組合・全郵政に吸収合併されて“
JP労組”となった】

【02年3月27日、“処分撤回裁判”で東京地裁不当判決。02年9月1
0日、全逓本部相手の“儀救特例加算金等裁判(原告1人:池田)”で最高裁勝
利決定、これにより“儀救・組合員資格継続裁判”原告の他の3人も本部交渉で、
他免職者と差別されていた儀救特例加算金をゲット、軍資金的に余裕をもつこと
ができた。】

00年2月、ボクだけ2度目の全逓からの違法で前代未聞の首切りをされた。
郵政多摩合同労組(91年郵政全労協設立に参加)の89年12月結成以来の組
合員だが、「全逓からの首切り撤回」のため「非公然組合員」となっていた。だ
けれども誰も「非公然組合員」だと思ってくれないので、色々な所で、大衆的な
場でも「ボクは非公然だ、非公然だ」と言って回るヘンテコな「非公然組合員」
だった(文書類に証拠を残しさえしなければよい)。こういう全逓本部をなめた
態度を昔からやってきたところを見ると、不良中年になる要素は元々あったのか
もしれない。

   **国労4党合意問題**

 86年修善寺大会をも克服した国労組合員3万〜4万人の半数強が、2000
年の組合員一票投票で「JRに解雇の法的責任はない」へ賛成したことは、投票
操作等がされたとはいえ衝撃的だった。「法的責任がある」と熟知し、14年間
も他の人に「責任がある」と訴えてきた人が、賛成票を投じた。ボクの若い時か
らの活動の中心は、敵の嘘ゴマカシの暴露であったが、これでは無意味だ。真実
さえ明らかになれば皆が不正に怒るはずという、ボクの「無前提的な人間信頼」
は傷付いた。不正に対し立上がるためには、真実だけではなく、展望や利害調整
など心理学的過程の水路がプラスされねばと、遅ればせながら考えた。

また、この2000年4党合意問題での人手不足故の張り付き活動は、「不良
中年」への一大転機ともなった。「間違いを犯さぬよう諸先輩方々ともよく相談
し、緻密に慎重に配慮を重ね」などとやってる心持ちでも情況でもない。よくマ
アここまでもイテコマサレたら、もうここまでも来たならば(4・28を含む全
争議団、全労協、日本労働運動の最終的解体局面)、ケツをまくってでも、破れ
かぶれでも、とにかくやるっきゃない。各個人の自立的な行動、その場その場で
の感性に依拠した判断、捨て身の闘いからの反撃開始、これらを持ち寄り紡いで
の「新しい」活動スタイルが比重を増した。目まぐるしい情況転換、狐疑逡巡、
苦境の中から登場する仲間への共感と信頼等々、ボク個人は「走りながら考える」
への変身を遂げるより他になかった。

そしてついでに、それまで細部までの正確さに時としてこだわる傾向もあった
が、ヤッテランナイということで、大ざっぱ・大筋・大胆の重用へワープした。

 しかしこの「“全逓本部による91年免職者切捨て”=『2党合意問題』の2
番煎じである4党合意問題」の攻防は、「闘う国労闘争団」と「国鉄闘争共闘会
議」を創出させ、それは国家的不当労働行為を部分的にではあれ認める「鉄建公
団訴訟05年9・15東京地裁判決」へとつながったのだ。

   **コイズミと人民**

01年の小泉首相登場時には、「純ちゃん」の支持率が80%台後半に達した。
道ですれ違う人10人に9人が、あのデタラメ言い放題のコイズミ・・・「自衛
隊を派遣した場所が非戦闘地域だ」など寄席漫談ならいざ知らず、国会答弁で通
用してしまう信じがたい出来事。05年郵政民営化「刺客」総選挙で自民2/3
議席等々・・・支持かと思うとアホらしくなってきた。侵略戦争の歴史の塗り替
え・日の丸君が代処分、イラクで拉致されたNGOの人たちへの「自己責任」大
合唱等々、理屈もへったくりもありゃしない。新自由主義グローバリズム(国際
的には、ブッシュや投機マネーがデタラメやり放題)の弱肉強食・拝金主義・格
差社会形成は、日本社会システムのタガだけでなく、人々の心のタガまでも外し
てしまったようだった。

 コイズミやブッシュが嘘出鱈目なのは、マアナントカ「理解」できる。嘘出鱈
目が彼らの商売だからだ。だがこの嘘出鱈目に拒絶反応を示さない“人民”たち
にはガクゼンとする。なぜ拒絶反応を示さないかといえば、彼女/彼ら自身が、
コイズミ程ではないにしろ普段から、嘘出鱈目を言う・黙認する・接する生活を
しているからとしか思えない。ヤッテラレナイ。

 だが、嘘出鱈目を言わざるを得ない等の生活の中に置かれている、とも表現で
きる。政府・支配者と人民・被支配者とは同一ではない。「プロレタリアートは、
決して、道徳的にブルジョアジーに勝るものではない。だが彼らは、残酷な経験
の中で学ぶのだ」と賢人は言った。日本帝国主義本国の労働者階級の多くは、
(ワーキングプア等が近年大量産出されているが)世界人民の中層・上層生活の
位置にあり、その意識はその生活様式に規定されていた。

  【70年安保闘争〜75年公労協8日間スト権スト〜78・79年の全逓越
年闘争以降、ずっと下降線を辿る階級闘争。ボクら“左翼”は、70年代から8
0年代にかけて、「無前提的信頼」をあるがままの労働者階級に寄せ、その奮起
を当然視し、他方で、急進主義的な層に依拠して運動を組み立て突破口を切り開
く、といった路線や活動の在り方(綱領・運動・組織)だった。あるがままの労
働者階級と本格的に向合い格闘し、その脱皮・発展に寄与する運動・活動の在り
方は、当時の情勢では困難だったのだろうか? そうするには、そのような綱領
・路線論議が不可欠だったろう。“革命党”とは、人々のお役に立てる能力を鍛
えもった“ボランティアの中のボランティア”であるべきだったのに。いずれに
しても、今、現代帝国主義論や世界と日本の分析・総括論議等が求められている
と思う】

  【そしてこれらのことが今、次の展望のないまま、崩壊過程に入っている。
コイズミ改革矛盾の「犠牲」になって、安倍晋三首相は07年9月、たった1年
間で失脚した。01年同時多発テロ後もてはやされていたブッシュもネオコンも
(これに反対する100万人単位のワールド・ピース・ナウ運動等も生起し)、
今は失脚同然のように不人気だ。07年初頭から続くサブプライム住宅ローン問
題は、投機資本主義・ギャンブル資本主義の世界経済を直撃している】この様な
情勢のなかで、04年東京高裁と07年最高裁の4・28勝利決定はなされた。

   **不良**

 この社会全体を覆う嘘出鱈目の風潮は、当然ながら、何らかの形で闘う仲間の
心へも浸透・影響していくのだった。運動の高揚期には、連帯感や自己犠牲の精
神が前面に立ち現れてくるが、運動の停滞期には別のものが前面に登場してくる。
 
 ボクも含めて人間の心の中には、善と悪の両方が住んでいて・・・どんな善人
でもどんな悪人でも片方だけということはありえなくて・・・せめぎ合っている。

 そしてまた争議28年という年月は、後半になっていくほどに、心優しき仲間
や先輩等々の他界と、何回も直面させもした。

 ボクの「ノホホンの楽天主義の脳天気」は、すさまじく縮小した。少なくとも
脳天気部分は壊滅させられた。代わりにペシミズム(悲観主義)・敗北主義が宿
り始めて、生まれて初めての体験に驚いた。

 これらはボクの活力を低下させ、「忙し病」重症化の大きな一因ともなってい
た。

 重症の「忙し病」は、約束の作業未達成など、多くの不義理や失敗を発生させ
る。シャキッとして自信のある時ならば、率直に詫び、総括して原因と克服の道
を探り、不義理や失敗を繰り返さない「イイ人」になるだろう。こうしたつもり
が、2度3度4度と同じ過ちを繰り返せば、自分で自分に自信が持てなくなって
くる。

 そうした時に、不義理や失敗に対して、「急用が入ってしまい」云々の“嘘も
方便”の多用など自己防衛をやりだしてしまう。さらに進んで、責任転嫁の論理
や詭弁・居直りなどでその場を切り抜けたいとの欲求までが生まれてくる。ボク
はこの欲求とは闘ったので「イヤナ奴」にまでは堕落しなかったが、この欲求経
験は逆に、人の話の裏を読んだり、疑惑の耳で聞いたりもできる人間へとボクを
変えてしまった。“無前提的人間信頼”が消滅してしまった「不良中年」の完成
だ。そして、全逓本部役員等々のおかげもあって、人々の嘘デマカセを見抜くこ
とが大分できるようにはなったのだ。

   **子供たち**

だがアホらしくなったとはいえ、「忙し病」が重症化したとはいえ、ナントカ
どこか食い破って反転攻勢の道を探らねばとしつこく生き続けるのが、争議団の
宿命であり、また争議団の良いところでもあった。それに、スッキリシャッキリ
状態ではなくっても、矛盾を抱え込んでグジャグジャになったとしていても、不
良中年は、軟体動物のように、ゴキブリさんのように、しびらっこくしたたかに、
敵に嫌がらせ攻撃を仕掛け続けることもできるのだった。

 それに、「大量破壊兵器の存在」云々のブッシュの大嘘、それが嘘だったと米
国政府機関が認めた後でさえも続いている侵略戦争によって、殺された20万人
を超すイラク人民、
万を超す死者の貧乏な米国下級兵士など、彼女/彼らにとっては、「アホらしい」
どころの話ではない。“ベトナム”は繰り返されている。それでも“反米帝・否
テロ”など、活動し続けているイラクの人々がいる。

05年8月、参議院では郵政民営分社化法案を否決した。この時、連日の国会
前座り込みをした郵政の仲間は必死だったが、やはり隣で連日の座込みをしてい
た「障がい者自立支援法案(自立撲滅法案)」反対の障がい者らは、もっともっ
と必死で切実な感じがした。国会前大通りを埋め尽くしたすごい数の障がい者、
昔日の感がした。障がい者運動から労働者運動へ軸足を移した青年期、あの時、
当たり前のこととして、障がい者差別とも闘う労働運動創りを目ざしたのに、ほ
とんど実現できてはいない。

 知り合いの保育士さん等がいる保育園労組を、物販活動を名目にボクは何回か
訪問させてもらい、終日、幼児たちと童心に帰って遊びまくっていた。とてつも
なく楽しい。子供たちはイイ。彼女/彼らは、人類の未来であり希望であり、疲
れた大人たちがナントカ頑張って生きていけるのもこの子たちのおかげなのだと
思う。

【不幸だが幸せな争議体験】

 79年の4・28処分以降、労働運動はずっと後退を続けてきたとはいえ、後
退戦を闘う中でその度に、ボクらは「負けの中の勝ち」=反撃のための場をそれ
なりに築いてもきた。やればやっただけの、何らかの成果は生まれる。総評解体
の中での全労協結成等、全逓解体の中での郵政ユニオン等の結成(非常勤労働者
連帯の踏み出しや公共労働の対案戦略)、東京地評再編の中での「けんり総行動
実行委員会」による東京総行動の継承等々。争議を通してのやり甲斐・生き甲斐
は、けっこうあったのだった。
       *       *       *
争議生活というのは、他から見るほどの「悲惨と苦汁一辺倒」などでは決して
ない。ボクは「楽な道」を選んだので、結果として28年間の争議を続けること
になった。そう、争議の道選択は、「楽な道」でもあったのだ。

 この世知辛い世の中で、こんなに多くの善人ばかりと巡り逢える生活はそうそ
う無い。自分の一円の得にもならない支援をする善人たち。当局官僚や全逓官僚
など、彼らは悪人を選び鍛えていくという、卓越したシステム組織での適者生存
組だ。争議団は、逆のシステムで逆の人々に会える。争議は支援を得なければ存
続できないからだ。そして争議団は、見ず知らずの労組等のドアでさえノックで
きる特権を許されている。

 それに、苦悩が深ければ喜びも深い。苦悩と喜びを共有してくれる人々の存在、
得だ。4・28の勝利が決まった時には、「良かったねえ、ホントに良かったね」
と、自分のことのようにほっと一安心、という喜び方をしてくれる人々もいた。

また争議団は、敵にすり寄る者とは違って怒るべき奴に怒れるし、敵に対して
言いたいことが言える。諸配慮の必要情況にある仲間に代わって、言いたいこと
を言わなければいけないことさえある。とりわけ、クビ切りまでもされてしまっ
たなら、もう恐れることは何もないのだ。KY(空気を読めない)なんてのはメ
じゃなく、KK(空気を掻き乱す)の方が良い。

 逆に敵にとっては、うっとうしかったり恐れたりする邪魔なだけの存在で、一
度クビにしてしまったならもう搾取も命令もできずのメリットゼロ、それどころ
か労務対策費までがかさむ迷惑千万の存在だ。

 これら他ではなかなか難しい貴重な体験、争議生活に伴う悲しみ悔しさ不安さ
えも含めての貴重な体験は、他で得るのとは異なる視点や思考や人間諸関係等を
育んでくれるだろう。

 もちろん、誰もが争議をまっとうせねばという訳ではなく、まして争議をまっ
とうした者がエライとか善人だとかでは全くない。ボクはまっとうできる諸条件
にあったからまっとうできただけの話で、その諸条件がない人には皆で条件整備
の努力すればよいのだが、いつも成功するとは限らない。むろん、共に争議継続
することへの要請や論争はキタン無くやるべきだし、やれたら嬉しい。でも各自
の主体的客観的諸条件により選択は多様であり、真っ直ぐに進む者、寄り道しな
がら進む者、まったく別の移転場所から声援を送る者など、協力し合えるのが美
しい。4・28は、美しさへとは至らなかった。

 自分は先頭を進んでいると勘違いしている者が、もしくは、勘違いしたがって
いる者が、他の選択をした者へ「脱落派」のレッテル張りをしたりは、醜いだけ
でなく、百害あって一利なしだ。4・28争議の中でも、この種のことはあった。
       *       *       *
 寝返りや裏切りは、これとは全く違う。彼らは「楽な道」ではなく「苦の道」
を進む可哀想な人なのだ。これをやる際には、無理な言い訳や論理矛盾の強弁を
せねばならず、大変な努力がいる。でも、納得してくれる人はいない。大変な努
力をしているのに恨みを買う。損だ。“他人を踏んづけて自分だけ良い思いをす
る連中”に対し、今まで長年かけて培ってきた武器が、今度は自分に向けられる。
損だ。オエライさんたちに、もう言いたいことを言えないだけでなくヨイショま
でしなければならない。環境激変だ。この世知辛い世の中で貴重な善人たち仲間
たちの集まりから、悪人たちの集まりでの人間関係となる。そこでは、他よりも
有能な悪人となる競争が強いられ、まして寝返ってきたばかりの新人は他からの
疑惑を払拭するために、人一倍悪行に精を出さねばならない。こんな事をするた
めには、自分自身を偽らなければやっていけない。だが真に自分自身を偽るなん
て、マジッシャンでもできはしない。ストレスはたまる。それで八つ当たりやエ
バリちらしたりの人となるので、ますます皆から嫌われる。

 人は、自分の価値基準を他にも当てはめる傾向があり、たとえ誰かに親切にさ
れても、この親切には裏があるはずと思ってしまうので、周囲の人間誰に対して
も心を許せない・・・ヒトラーやスターリン等の独裁者はよく側近たちをも粛正
する。独裁者まで上り詰めないと、せっかく寝返ってきたのに、粛正される側に
回ってしまう危険をはらむ。損だ。ホントに「苦の道」だ。ゴクロウさん。4・
28免職者の中にも、この様な人はいた。

 争議団誰もが体験する幾つものほんのちょっとした岐路、この選択を間違えた
ら、深みにはまる前に急いで引き返さないと大変なことになる。

【幸と不幸混在の争議仕上げ期】

 ホップ([40歳頃]=90年頃)、ステップ([45歳頃]=95年頃)、
ジャンプ([50歳頃]=00年頃)、アンド、着地点定住の本格化([55歳
頃=05年頃])という具合に、「忙し病&不良中年化」は進んできた。

 「郵政共同センター」内の諸作業等々は、仲間に申し訳なかったが、02年前
後頃から五月雨的に“業務移管”がなされ05年に“移管完了”となった。例え
ば、未習得なままのパソコン開始は紙の書類を減らさずに、逆に、事務所のパソ
コン内も紙の書類も、自宅のパソコン内も紙の書類もゴッチャになっていった。
心優しき仲間のケアとフォローがなかったら、大変なことになるところだった。
「忙し病」の不良中年は、それらの整理に挑むどころか、原稿〆切等々にただた
だ窮々となっていた(事務所は08年1月20日、近所へ引越をし電話番号も変
更になった)。

 05年はまた、“東京高裁4・28処分撤回の大勝利判決”(04年6月30
日)を得て、全国各地でのお礼報告集会等が一段落・・・12月9日「多田瑶子
反権力人権基金」の4・28原告団受賞もあった・・・、久しぶりに全ての公判
が無くなった年だった。この年は、「郵政クビ切り物語=4・28処分と郵政職
場(ビデオプレス制作)」各地上映会(パリ大学のゼミでも上映)と、“郵政民
営化国会”の年となった。だが、05年1月の団地建て替えに伴う引越は、運動
云々以前に寝食の場も引越段ボール箱の山に占拠され尽くすという、これまた珍
しい生活体験をボクに強制していた。

後少しで段ボール箱すべてを整理できるかもという時、昨年[57歳、07年
2月13日最高裁勝利決定]がだされ、従来スタンスの色々が吹っ飛んだ。「不
良中年」は半分だけ返上、「忙し病」はそんなのにかまっていられず争議解決仕
上げにのめり込んだが、「忙し病」以上に忙しい毎日を送ることになった。
       *       *       *
98年の「組合員資格」での全逓本部に対する最高裁勝利、04年の郵政公社
に対する東京高裁勝利、そして07年の最高裁勝利。その都度ボクは、長短20
以上の勝利報告お礼文を色々な所に寄稿させてもらった。

 98年段階では、編集者や読者に同じ文言では悪い気がして、ビートルズバー
ジョンだの太宰治バージョンだのに書き分けた。04年段階ではもうそんな余裕
はなく、勝利の意味をまとめて書くか経過報告に添って書くかなどの、ちょっと
した工夫で精一杯だった。今回の07年段階では手抜き効率化でもって、雛型文
をまず作ってしまい細部のみを修正書き分けしようと企んだ。だが想像以上に、
争議解決仕上げに向かう諸事態はどんどん変化して活動課題も多様化していくし、
雛型文自体を何回も書き換えるハメになって、要は、雛型文としてはほとんど機
能しないままに終わった。争議途中での勝利報告と、争議解決仕上げ活動の開始
となる最高裁勝利報告とは、全く別物だった。

 そして08年1月15日、「4・28勝利その後」と題したボクの一文が、機
関紙「郵政労働者シルバーユニオン」に掲載された。この筆者さんは「とても詩
的で神秘的な名文だ」と、どういう訳か今急に気がついた。決して、究極の手抜
き効率化の企みからではなく、「名文」のプレゼントという善意から、この一文
の抜粋を以下に転載することにした。
 ==============================
   **「4・28勝利その後」 <抜粋>**
 〜〜≪こんなに嬉しいことがあっても良いものだろうかとの思いに続いて、さ
らに一年弱、全国各地で喜びを共にしてくれる人々がこんなにもたくさんいると
実感する日々で、嬉しさは何倍にも膨らんだ。これは支援連帯してくれた皆さん
自身の勝利、ホントにホントに、どうもありがとうございます。

 さらに嬉しいことには、当初は元免職者との交渉など一切せずケンモホロロの
郵政公社のエバリンボ態度だったが、復職時賃金やバックペイ計算では14号俸
アップなど、郵政ユニオン交渉の中で諸要求の実現もできた。最高裁決定後の何
回もの東京総行動参加や地域の仲間も含む「4・28ネット拡大会議」等を通じ
ての、争議解決総仕上げに向けた内容豊かな活動もできた・・・「豊か」はよい
のだけれど、最高裁決定後は忙しさ3倍、しかも2〜3ヶ月で終えると思ってい
た争議解決仕上げが年明けまでも続くとは!

 そして今、「4・28ネット」11月13日解散の後も、郵政当局と変節大労
組への批判と謝罪要求や、郵政共済組合への年金問題等での国公共済審査会請求
などを続けている。

 ボク自身は、3月20日に八王子郵便局に復職し、年休28年分問題やバック
ペイ税率問題等の攻防を行いながら、7月6日に退職した。今後は、体と心と頭
の健康回復・調整などリフレッシュ期間の最中に、首切り前の郵便局勤務3年間
の経験よりも、28年間の争議生活体験を有効活用できる道を、じっくりノホホ
ンと模索していくつもりだ。2年後に60歳になった時には、シルバーユニオン
にも参加させて下さい。

 シルバーユニオンの多くの人たちは、「4・28ネット基金」の世話人等々2
8年以上にわたって、免職者当該以上に熱い想いで支えてくれた。安心して頼れ
るお兄さんお姉さんが常に全国にいてくれたこと、こんなに恵まれた争議はない。
感謝!です。≫〜〜
   ==============================
       *       *       *
争議解決仕上げの活動が、それなりに上手くできたことでホットしている。最
高裁決定を受けての郵政公社東京支社による2月26日「説明会」は、労働条件
も示さぬまま「3月1日各局へ復帰」「地方在住者でも東京の原局以外は不可」
等を、元免職者へ指示する横暴なものだった。「まず謝罪しろ」の合唱で、こん
な横暴を簡単に吹き飛ばせると思っていたボクは甘かった。当局の規制を無視し
てボクが「要求書」を読み上げるなどしても、合唱は起きなかった。当初はどう
なることかと困惑したが、様々な支援のおかげもあって諸課題をそれなりに達成、
支援仲間や他争議団などへの「仁義」をクリアーすることができた。

 当局は、“10月1日郵政民営分社化前に全て決着”という弱点を抱えていた
はずだ。この点を突き、また10月1日を超えてもの、“28年間分の年休問題
”や“謝罪問題”等での追撃エスカレートをし、この際一気にと、決断しようと
した時期もあった。だが、諸状況の分析と、他争議仕上げ作業の必要と、そして
既に「ザマーミロ!」と言ってやるだけの基本的勝利を達成していることにより、
“背伸び方針”をやめて“長期にシビラッコク追及方針”へ切り替えた。その他
予備知識の無かった諸課題・諸作業が登場してきて、“争議仕上げ活動”の大変
さと面白さとを初体験した。

この間残念に、また、申し訳なく思うのは、全国各地で開いてくれた多くの
「勝利報告集会」等について、レポートもお礼もちゃんとできないまま時が過ぎ
てしまったことだ。3月24日から9日間の「西日本連鎖集会」を皮切りに、5
月7日から一週間の「国労・北海道全13闘争団訪問交流」等々を経て、最後は
12月16日の「4・28の勝利を三多摩で祝う会(参加63人中、OBを含む
八王子局関連の人たちが12人も参集してくれた)」まで、実の多く親切と笑顔
に出会いさせてもらったのに。その他、諸活動などへの欠席等々も含め、お詫び
したい。不良中年のしたことだからと大目に見てもらえると、とても気が楽にな
るのだが・・・。

昨年2月13日最高裁決定以降今日に至るまでも、争議解決仕上げにずっと専
念させてもらっている。義理を欠かさないためにの専念だったが、それまで最低
限の義理は守るとしてきた人々に対しても、解決仕上げが一段落してから改めて
お礼をと、夏到来までには一段落、秋までには、冬までにはと想定外に一段落の
先送りが繰り返された。結果11ヶ月半を経た今日、逆に個的不義理が蓄積され
てしまった。基本的・大筋の義理は仲間たちのおかげで果たすことはできたのだ
が、「走りながら」の作業で配慮を欠いた点も生じ、個別的な義理についてはこ
れからだ。2月13日の一周年までにはナントカしたい。が、不良中年のことだ
から、たぶんもっと時間がかかりそうだ・・・。

   **「4・28から」最終号の補足**

 最高裁勝利以降の一連の出来事は、「4・28から(07年11月13日付N
O.174最終号、A4版10ページ)」を参照願いたい。
 さらに参照だけでなく、以下の補足記入をしてもらえるなら、とてもありがた
い。
<a>「4・28最高裁07年勝利、その後の歩み」p2〜3に
* 7/23 共済審査会事務局大塚氏と石原・竹中両代理人などが面談
 *11/22 共済審査会へ「審査請求書」を正式提出(請求人=庄野・名古
屋)
 *12/ 1 神奈川県共闘大会二次会交流会でお礼挨拶
 *12/ 4 「4・28ネット」ホームページ、最終更新
<b>「マカ不思議4・28勝利〜謎解きを!活用を!」p6〜7に
 「4・28処分撤回裁判」に関する記述として
*07年11月末号の投稿文の最後のパラグラフ=一審東京地裁判決との関連
を記載
 (この投稿文は、ホームページ「郵政労働者ユニオン九州」の<4・28のペ
ージ>欄、  及び、ホームページ「レイバーネット」の<コラム/エッセイ>
欄に掲載)
*全逓弁護団(人事院公平審査と一審途中まで)の方針三本柱の内1本で最高
裁勝利
 *新弁護団での一審中、新資料分析で「各局滞留物数と懲戒免職数の乖離」鮮
明暴露、 「指導者責任と単純参加者責任の諸判例」「省人事局長による免職者
の党派分析」暴露

【幸せな? 未来へ】

 [2008年1月末現在、58歳]と3ヶ月弱。

ここまで書いてきて、ボク自身の足跡なのに曖昧にぼやけていた部分も思いが
けなく判明し、自分で自分の歩みがかなり整理できた。

 けっこう珍しい体験に出くわしてきたが、当時は当たり前のことと思った事も
多く、いちいち感激しないで損をした。28年分の賃金を一度に受け取るという
のも珍しい体験の内だろう。こんなものは、一人で有効活用は無理なので「4・
28ネット基金」にお任せした。これまで老後のことは考えても仕方ないので考
えなかったが、思わぬ勝利で年金も保証され、これからも大して考えなくて良く
なった。今後は「普通の郵便労働者の生活水準」をしていきたい。この水準より
も高すぎても低すぎてもよろしくない。ただしこの「水準」というのは、申し訳
ないけれども、非正規労働者のそれではない。食っていけなくなるからだ。

最高裁決定一周年の2月13日までには、今度こそ本当に、基本的な課題につ
いては争議仕上げ活動を一段落(の予定)、そして「長期リフレッシュ期間」へ
突入したい。この一年間、「3倍の忙しさ」だったわけだから、2年間の休暇を
取らないと計算が合わない。だがボクは気前がよいので、一年間にオマケしても
よいかもとはチラと思っている。さらに、昔ボクはバナナの叩き売りが好きだっ
たので、自分のご都合次第で、半年にダンピングということもありなのかも、だ。

 ただ、けんり総行動実行委員会事務局(東京総行動=国鉄闘争・諸争議など)
や、郵政共済審査・謝罪要求の他にも税率の再計算要求など、争議解決仕上げの
継続諸課題もあって、完全休暇というわけにはいきそうもない。

   **「再生」へのリフレッシュ期間**

「再生」のためのリフレッシュ期間中に、何が何でも最優先で行うのは「忙し
病」の原因除去だ。この出陣準備が達成されないかぎり、リフレッシュ期間は永
遠に続くことになる。

 若い時とは逆に非効率へ転化してしまった、他の追従を許さない不規則な(一
日のサイクルが45時間だったり15時間だったりの)夜行性生活や、睡眠障害
とか耳の病気とか咳き込みとかメタボチックとか、あちこちにガタがきている心
と体の「カイゼン」に取り組む。人間ドックを強烈に勧めてくれる仲間もいるが、
この数年間、市行政の無料健康検診もパスしてきたのは、「忙し病」のせいだけ
でなく、「も少し健康になってからでないと何を言われるか恐ろしい」からでも
あり、高尾山などに登って「カイゼン」を果たしてから行くことにする。また“
親孝行をしろ”と命令してくれる仲間もいるが、この1年弱の間、命令に背いて
しまったことは素直に反省したい。

 「頭の中での空想物語の創作」など「現実逃避傾向症」も、「忙し病」の結果
でもあり原因でもあり、「カイゼン」を実現する。今書いているこの「寒中お見
舞い“自己紹介”文」が、1月初めではなく1月末迄に至っていることに、この
「逃避傾向症」も一役買っているわけで、本気になってこいつをナントカしなけ
ればと、今書きながら、改めて自覚している。

=============================
 どんな「空想物語」かというと、しょうもない話で、例えば江戸時代の話では
〜〜
  【<1>水戸黄門・助さん・格さんご一行が3組も4組も登場。コメディー
タッチのくせに、アガサ・クリスティー並の、どのご一行が本物かのミステリー。
絶対的権威をもつあの印籠を、金儲けに利用しようとしたが被害者に同情し善用
してしまった偽物、そして一番悪質使用したのが、実は本物だったというストー
リー。 のはずが <2>あるご一行の手先となって情報収集や操作を担う忍者、
偽物ご一行を本物と間違えて暗殺しようとするトンチンカンな忍者、それに「抜
忍カムイ」の様な忍者らも登場し、白土三平並みに、サスペンスタッチの武闘も
展開されていく。 のだが <3>この武闘はいつの間にか時代考証も無視して、
「抜忍カムイ」が追っ手をまくため宮本武蔵と名乗り表世界へ剣豪として公然デ
ビュー、柳生権力との対抗、下忍による上忍への反乱、百姓一揆との連携など、
佐々木小次郎・柳生十兵衛・伊賀・甲賀も登場し錯綜し合い、出鱈目でシリアス
な社会派ドラマになっていく〜〜】
 といったわけで話はエンドレス、大量の時間が必要になる。
   ==============================

 リフレッシュ期間中に、今後2度と「忙し病」に捕らわれないためやっておく
ことは、まだまだある。28年間の資料整理だけでも、山のようだ。だがこの機
会にエンヤコラとやり遂げておかないと、たぶん一生やらないような予感がして
怖い。本来ならもう既に読んでおかねばならない本や読みたかった本も、そして
漫画も、10冊以上ずつはたまっている。この10年近く、じっくり熟読した本
が無いというのは、お恥ずかしいというか可哀想というか、やはりボクはボクを
慰めてあげたい。イロハ的基礎知識も習得しないまま使っているパソコン、10
年以上も弦が切れたままのギターや刹那的に聞き流すだけとなっていたCD、3
年前の引越以来まだ部屋の中央を占領している手つかずの7つの段ボール箱等々。
こんなにたくさんの事、不良中年がやり遂げるには10年くらいかかってしまい
そうだ。どうしよう?!

 そして戦後労働運動や国際左派の衰退などの総括に関しても、ボクの役割とは
違うような気もするが、もし可能ならば、そのような論議に参加していく準備く
らいは始めたい。いくら不良中年とはいっても、ナニカ、次世代へ多少はお役に
立つことができるかもしれない。

 半分諦めかけていたこれら一切合切が、完璧にスッキリシャッキリしてしまう
なんていうのは夢のようだ。「忙し病」からの全的解放、こんなぜいたくを手に
入れられる人はとても珍しい人だろう。皆さんのおかげだ。皆さんが忙しい忙し
いとやっている中、本当に申し訳ないけれども、この一時期、長期リフレッシュ
期間のぜいたくを許してもらっちゃおうと、不良中年は決断したのだった。

   **何故28年も続けたの?**

4・28勝利の意味について、通常3点(少数派が、a国家の不当労働行為や
新処分政策、b変節した人に冷たい労働運動、c現在の新自由主義・差別・格差
社会、に対して痛撃)を、ボクは強調してきた。4点目の意味ついては、これま
で簡単に触れるだけだったが、この超長文の“自己紹介”が、余すところ無く白
日の下にさらした。
 「首切り撤回闘争の当該が、“ノホホン脳天気”だったとしても、途中からフ
ットワークの重い“忙し病”になったとしても、手抜きとヤブレカブレの味を覚
えた“不良中年”になったとしても、また当該間の団結連帯が不十分だったとし
ても、つまり、諸矛盾をたくさん抱え込んでしまっていても(どうせ敵はもっと
多くの矛盾を抱えているのだし)、“筋を通した”その一点だけで、処分粉砕を
勝ち得ることもできる」という、他争議団等にも大きな励ましとなる意味だ。

 そして28年間“筋を通した”歩みを続けられたのは、一つには「人間という
生き物への、(“無前提的な信頼”は挫折しても)根っ子の所での信頼は持ち続
けられた」ことと、二つには「共に歩んだり見守ったり声援したりの、優しさ・
親切・暖かさに触れ続けられた」ことだと思う。

 そしてそして、この二つのことは、濃淡の違いはあれ誰でもが既に携え所持し
ているものなのだ。従って、誰でもが、勝利の光に浴す未来と希望という“幸せ
“を、既に手にしているのだと思う。
       *       *       *
リフレッシュ期間の終了後、どんな新たな人生を始めるのだろう? 「再生」
したボクに何ができるのだろう? “イイ子”&“不良”を止揚しての“悟り”
へ至るのは無理な話だが、バージョンアップした新“不良”パワーを、4・28
勝利の意味の“消滅”ではなくて“善用”の方へ向かわせるのは無理ではないだ
ろう。“賃労働”ではなくて“ボランティア的労働”・“社会的有用労働”・“
個人的ノホホン労働”? “〜ねばならない行動と生活”ではなくて“〜したい
行動と生活”? まったくの未定だ。ただ今後「無前提的な人間信頼」を幾分な
りと取り戻す社会へと歩んでいけるならば、「幸せなご幼少期」以上に「幸せな
不良中・高年期」となるかもしれない。一体どうなるのか、少し、どきどきワク
ワクだ。

 4・28闘争のためにたくさんの汗を流してく
れた皆さん、親切にしてくれた皆さん、至らぬこ
と多くご迷惑をかけてしまった人々、済みません
でした。そして、心からどうも有難うございまし
た。今年も今後とも、どうぞよろしくお願い致し
ます。

Created bystaff01. Created on 2008-02-01 15:34:19 / Last modified on 2008-02-01 15:38:38 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について