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Document 20090621kuro
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第5回 天安門事件から20年

6月4日と聞いて、皆さんは何を連想するだろうか。「虫歯予防デー」を連想する人が多いのではないかと思う。だがこの日は、忘れてはならない事件があった日である。天安門広場が惨劇の舞台となった天安門事件、民主化運動を中国政府が武力で鎮圧したあの事件からもう20年も経ったのだ。

中国の民主化運動のきっかけは、この事件の2ヶ月前、改革派のリーダーで、失脚していた胡耀邦・元中国共産党総書記の死去だった。胡耀邦氏の追悼と称して天安門広場に集まり始めた学生らが、やがて民主化要求を始める。さらに、学生たちの民主化要求に理解を示し、対話によって事態の収拾をめざそうとしていた趙紫陽・共産党総書記(当時)が「学生に対して弱腰」との理由で解任される。

この解任には、すべての役職を退いていた小平氏の意向が強く働いていた。小平氏は、事件当時、中国共産党中央軍事委員会主任を務める実力者だったが、政府のすべての役職を引退していた。しかし、実際には、この実力者のもとに党総書記や国家主席といった最高幹部が足繁く通い、指示を仰ぐという状況が日常化していた。当時の中国は、長年にわたって党・政府に尽くしてきた功労者が属人的権力を行使するという、きわめて遅れた政治体制だった。

こうした中で、学生たちの民主化要求は先鋭化し、ついにハンガーストライキにまで発展した。ハンストは収束の見通しが立たないまま、趙紫陽氏失脚後の5月20日、戒厳令発令。地方から人民解放軍部隊が北京に集結するのを見て、武力弾圧が近いと考えた天安門広場の学生たちは、撤収の是非を投票にかけた結果、撤収反対が9割を超えたという。

そして1989年6月4日、事態は急転する。中国メディアが学生たちを「暴徒」、民主化運動を「反革命暴乱」と規定、「暴乱平定」のため出動した人民解放軍の戦車が学生たちを蹴散らし、銃を乱射して多くの犠牲者を出したのだ。

犠牲者数は少なく見積もっても数十人、最も多い報道では6000人とも言われた。第2次大戦後はどこの国にも見られなかったような野蛮な政治弾圧だった。外国メディアが天安門広場に散らばった無数の遺体を映し出しているのに、「党の喉舌」(こうぜつ=宣伝機関)とされている国営メディアはそれでもなお「人民解放軍はひとりの市民も殺していない」とウソの発表を続けた。中国政府が公式に認定したこの事件の死者数は319人とされたが、私は今でもその数字が信じられない。

中国人民解放軍の前身とも言われる「八路軍」は、日本軍や国民党軍と戦いながら中国各地を転々とするなかで、「人民からは針一本といえども奪ってはならない」「敵階級から奪ったものは公有とせよ」に代表される高い規律で貧困層の支持を得、それが1949年の中国革命の基盤になったとされる。その八路軍を前身とし、「人民解放軍」を名乗る軍隊が「世界人民大団結万歳」のスローガンが掲げられた天安門広場で「人民」を無差別に殺害するなどという事態は、私の想像をはるかに超えていた。「中国政府はそれでも最後の一線だけは守るだろう」と、対話による事態収拾を望んでいた私はすべてが信じられなくなった。そして、この事件は、半年後にソ連・東欧を揺るがすことになる「ベルリンの壁」「東欧社会主義」の相次ぐ崩壊とあいまって、社会主義・共産主義を多少なりとも信じてきた人たちを失望のどん底に陥れるのだ。

だが、中国共産党指導部の中では、彼らなりに整理ができていたのだろう。「共産党一党独裁の廃止」を要求するような連中は「外国勢力と結びついた小ブルジョア」であり、「敵階級」と規定して差し支えない連中であるから、人民解放軍は遠慮なく彼らへの「革命的暴力」を行使して構わないというのがおそらく彼らの「公式の教義」であろうと思われる。

しかし、そのような規定自体が根底から間違っている。天安門に集まった学生の多くは労働者の家庭の出身であり、将来は労働者として社会に出なければ食べていけない、という意味において労働者階級以外ではあり得なかった。その学生たちに人民解放軍が武器を向けたこの事件は、図らずも中国の共産党支配がどのような性格のものであるかを明らかにしたのである。

それは、この年の秋、国民の支持を失って一気に崩壊することになる東ヨーロッパの社会主義体制と同じ性格のものだった。そのころの東ヨーロッパは停滞と混迷という以外に表現のしようがないもので、ろれつも回らなくなった老いぼれの「最高指導者」が変わり映えのしない西側非難だけの演説をし、その無内容な演説に思考停止した党員たちが「万雷の拍手」を送るというどうしようもないものだった。その上、当時の社会主義国では、死亡以外の理由で最高指導者が交代することはまずなかった。ソ連でも、存命中に失脚したのはニキータ・フルシチョフただひとりで、後は全員が死亡か病気による交代だった。

こうした現実を見せつけられた中国の若者が、政治的自由を求めて天安門に集ったのは、当然の成り行きだったと私は思っている。もしも私が中国に生まれていたら、間違いなくあそこにいただろうと思うくらいに、私は当時、自分と同年代だった学生たちへのシンパシーを感じていた。天安門に集い、党中央から説得に乗り込んできた趙紫陽総書記と直接対話した学生たちにとって、「自由」はあともう少し手を伸ばせば届きそうなところまで事態は進展していた。しかし結局、党中央は学生たちに対し、最も野蛮な暴力で応え、自由への希望は散っていった。あの日、天安門からの撤収の是非を投票という民主主義的手段で決めた学生たちに対し、武力弾圧を一介の老人の一声で決定した党中央。そのどちらが正しかったかはいうまでもないだろう。

それから20年、一介の実力者が党中央を通じて属人的権力を行使するという二重権力構造は確かに消滅した。ソ連・東ヨーロッパの社会主義体制が「死」以外の理由で最高指導者を交代させられなかったのに対し、中国共産党は一定の期間が経過すれば党総書記も国家主席も交代させており、その意味ではルール化された統治であると言えなくもない。しかし、そうしたルール化された統治はあくまでも中国共産党内部の話であって、「党」対「人民」という視点で見た場合、20年前とそれほど事態は変わっていない。「ルール化された集団指導体制をとる一党支配の党」が国民の上に君臨するという図式にいささかの変化もないのである。

昨年の北京五輪直前には、チベットで暴動も発生したが、漢民族と明らかな格差があるにもかかわらず放置されている少数民族はなにもチベットだけではない。新彊ウイグル自治区を中心に生活するウイグル族(トルコ系)、寧夏回族自治区を中心に生活する回族(イスラム系)など、少数民族はすべて経済格差と抑圧にあえいでいる。

中国共産党それ自体も変質し、私営企業家の入党を認める党規約改正もすでに行われた。「資本家階級」の入党を認める政党が階級政党であり続けられるはずもなく、その実態は今や資本主義国の国民政党と変わらないといえよう。中国共産党が、経済開発のために独裁を維持する現在の姿は、発展途上国が先進国になるための経済成長の過程でどの国にも起こってきた「開発独裁」の中国的形態であるというのが私の現状認識である(この見解には異論を持つ方もいるかもしれない)。

だが、このような過渡的形態である開発独裁がいつまでも続くはずもなく、インドネシアのスハルト政権がそうであったように、いずれは汚職と腐敗による「内圧」と民主化要求という「外圧」がリンクするときが来るだろう。そのときが一党独裁体制の終わりになるに違いないが、少なくとも私は世界人口の4分の1を占める巨大なこの国の混乱を望んではいない。中国共産党がこの事件をきちんと検証し、複数政党制や自由選挙などの制度を段階的に導入しながら、安定的な社会運営という内外からの要請にも応える形でソフトランディングしてくれることを願っている。

 (黒鉄好・2009年6月21日)


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