判決までの経過。

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判決までの経過

2000年5月9日 東京都労働委員会の斡旋決裂

 1999年11月1日大幅賃下げ強行。12月の団体交渉では何も説明もされず、2000年1月19日に東京都労働委員会に斡旋申立。2月から斡旋が続けられたが、会社は組合員2名とも退職してもらいたいと言い出し5回目で斡旋は決裂した。

2000年6月27日 東京地方裁判所に提訴

  斡旋で入手した証拠をもとに、イセキ開発工機を提訴し在職裁判がスタート。
平成12年(ワ)第12998号   地位確認等請求事件 東京地方裁判所民事第19部
原告:西本敏子   訴原告訟代理人弁護士:宮里邦雄、中野麻美
被告:株式会社イセキ開発工機   代表者代表取締役 山岡優二(判決時の代表取締役社長は松崎彰義)
被告訴訟代理人弁護士:   大原誠三郎、小田切登、石川浩司
 

 会社は、「就業規則改定」である。通達「給与制度改定について」に同意したのだから、改定結果の32%賃下げに対して個別の同意は不要だと主張しています。裁判の過程で、通達「給与制度改定について」が発行された1999年10月7日は、既に新給与が決定されていたにもかかわらず、従業員には評価基準、資格要素、新給与など具体的内容を一切知らせないまま同意書に署名捺印させたことが判明しました。卑劣極まりなり会社です。
 会社は、女性の事務職は明日からでも派遣社員と代替可能な補助的定型業務だから会社への貢献度が低い。だから結果として女性は下位資格に集中しただけだと主張し始めました。「補助的定型業務」という単語を裁判が始まるまで社内で聞いたこともありません。私は1982年入社、旧制度では1990年に一般職では最上位の資格である主事に昇格し課長代理を命じられました。女性では始めての主事への昇格でした。イセキ開発工機には1971年の創業以来、1人も女性の管理職はいません。裁判の過程で私の参事(管理職)への昇格推薦が、女性であるが故に却下された事実も判明しました。旧制度下でも、新制度下でも女性であるが故に不利益扱いを受けてきたのです。

2002年3月27日 民事再生手続き開始申立、会社倒産、

 1999年11月の従業員を騙して実施した給与規程改悪は、社内に不安感・不信感を増幅させました。更に2001年3月の理不尽な退職勧奨によるベテラン社員の退職者続出は、対外的にも不信感を与えて業績は更に悪化しました。2002年3月27日、イセキ開発工機は放漫経営の果てに、ついに東京地方裁判所に民事再生手続き開始を申請し倒産(2月28日現在負債総額は88億円)。2002年11月28日に再生計画は認可決定確定し、資本金6千万円の会社として存続しています。

2002年7月22日、組合員2名を整理解雇と称して即日解雇

 民事再生手続き開始申立から約3か月半経過した7月5日に、管渠更生部門の大林道路株式会社への営業譲渡と人員削減が一方的に発表されました。組合員2名は「ポストがない」の一言だけで退職勧奨を受けましたが拒否しました。すると、退職勧奨を断ったことを理由に団体交渉中であるにも関わらず、2名一緒に整理解雇と称して7月22日に即日解雇され会社から排除されました。私は不当な整理解雇も提訴したので2件の裁判を闘うことになりました。

賃下げ裁判の証人尋問は8名

  会社が2002年3月27日に民事再生手続き開始申立をしたため、裁判は一時中断しましたが8月19日に再開しました。そして翌年の2003年2月から8名の証人尋問が開始されました。
2003年2月7日:   代表取締役副社長及び総務部長の主尋問と反対尋問
2003年2月21日:   常務取締役企画部長の主尋問と反対尋問
2003年3月7日:   原告の当時の上司であった企画部管理課長及び、新格付けに関与した営業部長の主尋問と反対尋問(両名とも給与規程改訂2年後の2001年に退職)
2003年4月25日:   原告の元上司であった取締役の主尋問と反対尋問(退職者)
2003年5月9日:   原告の元上司であった企画部企画課長の主尋問と反対尋問(退職者)
2003年7月4日:   原告である西本敏子の主尋問と反対尋問
2003年9月26日:   結審。判決言い渡しは12月12日

公正な判決を求める団体署名活動

  整理解雇裁判が結審した翌日の2003年10月7日に、女性差別による32%賃下げ裁判と、整理解雇裁判2件の公正な判決を求める団体署名活動を開始しました。判決まで約2ヶ月という短い期間でしたが、北海道から九州まで604団体の署名が集まり、労働者の強い連帯に勇気付けられました。

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