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LNJ Logo 原発がなくて本当によかった〜能登地震の被災地を訪ねて
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堀切さとみ


*珠洲市の海岸線道路 激しい土砂崩れで道路は寸断され、復旧の見込みはないという

 能登地震から4か月。被災地は今どうなっているだろう。
 東日本大震災や熊本地震に比べ、救助に来る自衛隊が少ないと言われる一方で、「ボランティアに行っても迷惑になるだけ」など、情報は錯そうしている。そんな中、5月3日から5日まで、福島第一原発事故で埼玉に避難している鵜沼久江さんと被災地を訪ねた。
 果たして現地まで行けるのか? 行って何ができるのか? 既に救援活動をしている片岡遼平さん(人権センターHORIZON代表)が、コーディネーターを引き受けてくれた。移動に時間がかかり、実質的にわずか二日しか滞在できなかったにもかかわらず、有意義な経験が出来たのは片岡さんのおかげである。

 地形が変わっているので、カーナビではなくグーグルマップを使うようにと言われ、まずは宿泊を受け入れてくれた「正福寺」(珠洲市)をめざす。
 上信越道を降りて「のと里山海道」に入る。道路の復旧は進んでいるとはいうものの、がけ崩れや道路の陥没で、ほとんど片側車線しか通れなくなっていく。

*四ヶ月間、放置されたままの車に思わず息をのむ

【浄土真宗のお寺で】
 145年の歴史を持つ正福寺では、ご住職一家が、遅い到着になった私たち二人を温かく迎えてくれた。
 二週間前からようやく水が出るようになったが、四ヶ月たった今も断水が続いている所は少なくないそうだ。避難所は沢山あるが、納屋や車庫で暮らしている人もいるという。
 「このあたりのお寺の中では、うちはマシなほう」と住職は言うが、鐘撞堂は傾き、瓦が落ちて雨漏りし、本堂の畳をすべて処分したそうだ。泊まらせてもらったお礼というわけではないが、カメムシだらけの本堂の掃除をし、畳の入れ替えの手伝いをさせてもらった。

 「一番欲しいのは、お金でもモノでもなく、情報だった」と住職の妻、賀奈子さんが言う。「いつになったら水がでるようになるのか。東北の地震の時はどうだったのかと思いながら、自分を鼓舞していた」と言うが、「福島では湧水があるから断水することはなかった」と鵜沼さん。地域によって弱点は違う。そこに合わせた防災が必要なのだ。


*住職夫妻、片岡さん、鵜沼さんら

 能登では一昨年は震度6弱、昨年は震度6強、そして今年は震度7が起きた。今回の地震で「まさか自分の町でこんなに被害が出るとは」という能登の住民の声を新聞で読み「三度目なのにナゼ?」と思ったと話すと、住職は「去年も一昨年もあったからこそ、もう大きいのは来ないだろうと思ってしまうんですわ」。なるほど。人間とはそうやって、自分を保つものなのかもしれないと、被災経験のない私は思った。
 お寺を修復するには途方もなくお金がかかる。さすがに今回は「また来るかも」と思い、直すことに躊躇いがあると言う。
 それでも一家は避難所の炊き出しに駆けまわり、地域の中継点になる。この日はお寺でヨガ教室が行われていた。
「つながりは力や」。被災後に住職が書いた筆字は、まさにこのお寺の心髄だ。

 能登半島の北端にある珠洲市は、輪島市に次いで犠牲者の多かったところだ。
 下から突き上げるような地震。地面の陥没が激しく、雪対策の能登瓦の重さでつぶれてしまう家が多いのだ。圧死したり、潰れた家の中で身動きとれないまま亡くなった人が多かったであろうことは、容易に想像できる。


 全壊した家屋は多いが、解体作業はこれから。公費で解体してもらえるが、新しく家を建てる場合の補助金は600万円。しかも、同じ場所に建てる場合に限るとのことだ。


*地震の前から廃線になっていた珠洲駅は、バスのターミナルになっている。向こうに見える家屋は潰れていた

  【珠洲市の避難所で】
 公設避難所である若山小学校(珠洲市)を訪ねる。子どもの日を前に、民間のボランティアグループが鯉のぼりの準備をしていた。
 若山小学校は一階と三階で授業が行われているが、二階の教室が避難所になっている。間仕切りのある部屋とオープンな部屋があり、好きな方を選べるようになっているそうだ。被災から一か月後に段ボールベットが入った。汗をかくので段ボールが湿って突然壊れるため、三か月たったら交換するということを初めて知った。

 石川県は子どもだけでも疎開させることを推奨し、金沢に行った子が多いそうだ。同じ石川県でも金沢市は被害が少なく、子どもを地元に残すか逃がすかの選択を親たちは迫られた。金沢に行った子どもたちはそのまま馴染んで、珠洲には戻ってこないだろうと言う人もいた。人口減少に直結する問題だ。

 炊き出しの人たちに、避難先の埼玉で作ったホウレン草を鵜沼さんが届ける。
 母親と仮設住宅で暮らす上濱信子さんが「風呂場と台所の床に段差がなくて助かるんですよ」と仮設の中をみせてくれた。こうしたバリアフリーの住宅は、熊本地震の時にできたそうだ。海沿いにある上濱さんの自宅は、津波で全壊になった。片付けようと仮設住宅から家に通ってみるものの、行くと何も手につかないのだと言う。
 ホウレン草を手渡し「頑張らないで」と繰り返す鵜沼さんに、上濱さんは泣いていた。

【隆起の激しさ】
 「もし珠洲原発があったら」。能登半島を走って一番思ったのは、何と言ってもそのことだ。今回の地震でどれほど強い力で地面が押し上げられたのか。
 珠洲市の海岸線を行くと、岩が黒と白になっているのがわかる。黒い部分がもともと海面上にみえていた部分だが、その下の白い肌は大地震で押し上げられ姿を現した。高さにして1メートルから4メートルくらい。隆起したせいで、島だったのに地続きになってしまったところもある。

 ここに珠洲原発が作られようとしていた。予定地は高屋地区と寺家(じけ)地区の二カ所。どちらも住民の力で中止させた。


*珠洲市ランプの宿」は風情のある観光名所だが、ここも珠洲原発の予定地だったという。

 珠洲原発に反対した北野進さんに、自宅で話を伺うことが出来た。
「珠洲原発は他と違って、市が誘致したんです。過疎対策として」  珠洲市は1954年に合併した時がピークで、それからの人口は減るばかり。市は生き残りをかけて原発に望みを託したが、反対する住民は多かった。いよいよ調査が始まろうとしていた1989年、当時29歳だった北野さんは白紙撤回を掲げて市長選に立候補した。結局僅差で敗れたが、反対派の候補はもう一人いて、二人合わせれば現職の市長よりも票は多かったという。
「よくもまあ、こんなところに原発を作ろうとしたもんですわ」と北野さん。
 もっと聞きたかったが、タイムリミットだった。北野さんは今「志賀原発を廃炉に!訴訟原告団」の団長として、全国を駆け回っている。原発建設に反対した住民が正しかったことに、異を唱える人はいないはずだ。


*北野進さん

【輪島市 朝市通り】

 輪島市は漆塗りで有名な観光名所だ。その伝統工芸に惹かれて移住した人も、地震による火災で命を落とした。
 テレビに映し出された朝市通りは、四ヶ月経っても、戦場の焼野原のようだった。木造のお店はすべて焼け、鉄骨だけが形を残していた。
 陶器の箸置き、醤油入れ、徳利など、形あるものが拾い集められ、店の前に大切に置かれていた。

【志賀原発のある町】
 「珠洲原発がなくてよかった」と思う一方、能登には志賀原発がある。東日本大震災以降、かどうしていないからよかったものの、今回の地震による影響は隠されたままだ。
 輪島市を南下すると志賀町に入る。志賀町は、日本の原風景をみるような素晴らしい所だった。

 人口18000人というから、福島第一原発がある双葉町と大熊町を合わせたのと同じくらいだ。「双葉はまだ避難する道路があった。ここで事故が起きたら、住民は逃げられないだろう」と鵜沼さん。

【志賀原発】
 集落を抜けて海岸線に出る。ここにも津波が来ていた。崖が崩れて道路が封鎖された場所もある。
 志賀原発はその道沿いにあった。


*海からすぐ近くに二本の排気塔がみえる

 もし志賀原発を動かす時が来たら、日本は能登半島を切り捨てたことになる。そう思いながら原発の写真を撮っていたら、後からパトカーが追いかけてきて職質されてしまう。鵜沼さんは「福島の原発事故で避難生活を続けている者です。今回の地震で被災地はどうなっているのか、心配で見に来たのです」と説明した。行く先々で能登の被災者の人たちと心を分かち合う鵜沼さんにとって、当然のことだった。事務的に職務を遂行する警官は、この地域を何から守ろうとしているのだろうか。

 正福寺の住職の「人の力ではどうにもならないことがあるのです」という言葉を思い出す。自然の力、地震も津波も、人間にはどうすることもできない。ただ、乗り越えるために人はつながっていく。

 「来てくれるだけで嬉しい」と行ってくれる北陸の人々は、温かくて力強かった。道のりは険しくても、能登は必ず復興するだろう。
 人々が力を合わせるために、放射能は絶対にあってはならない。福島の教訓を携えて、強くそう思う。


Created by staff01. Last modified on 2024-05-08 16:38:01 Copyright: Default

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