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News Item 201904005
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公捜処を作れば、金学義がなくなるのか

[ワーカーズ]社会主義探求領域

カンフ(社会運動に関心が多い) 2019.04.05 11:47

#1. あなたは公権力をどれだけ信じていますか?

「私は大韓民国の検事だ」。 法廷ドラマや犯罪・ノワール映画でよく見られる表現です (実際に検事たちはこの言葉をあまり使わないといいますが)。 一方では、あふれる自負心を、他方では「検事」という地位が象徴する 威圧感を吹き出します。 最近この威勢のいい人たちが犯した犯罪と醜態がまたあらわれています。 金学義(キム・ハグィ)前法務部次官の特殊強姦事件と 故チャン・ジャヨン氏の死をめぐる性犯罪事件を揉み消した事件が代表的です。 闘争集会やデモに対しては採証写真を根拠としてせっせと飛びかかり、 せめて罰金でも払わせると、唯一「偉い人たち」や、彼らと関連した事件では 動画を撮っても「証拠不充分」だとして無嫌疑処分をする「大韓民国の検事」。

検察の態度が浮き彫りになり、「検察・警察捜査権調整」の要求がぐんぐんと勢い付いている姿です。 「検察の過度な権限を警察に移管して牽制しなければならない」という論理です。 ところが警察はどれほど違うでしょうか? まさにチャン・ジャヨン氏の死亡事件に対し、 警察も疑わしい不良捜査の容疑を受けています。 その上「勝利ゲート」という名前まで得たバーニングサン事態は、 警察の高位幹部が直接癒着しており、警察自体が調査の対象です。

犯罪と刑罰を専門とする刑事司法機関は、その役割と権限の特性上、 市民にとっては実物的な公権力そのものです。 その前に立てば、思わず萎縮したり、時には恐れを感じることもあります。 しかしまさにこれらの機関に対する市民の信頼度は低いです。 昨年、韓国刑事政策研究院が発行した 「韓国の刑事司法体系および管理に関する研究」報告書によれば、 国内の刑事司法機関5か所(警察、検察、裁判所、矯正施設、保護機関)のうち 「検察を信頼する」と答えた割合は35%に過ぎず、最下位を記録しました。 「検察は清廉だと思う」と答えた割合も30%に留まりました。 世論調査業者リアルメーターが昨年11月に発表した 「2018国家社会機関信頼度」を見ると、 びりはせいぜい1.8%の国会で、そのすぐ次が検察(2.0%)、警察(2.7%)でした。

強大な権限を行使しながら、大衆の統制からは自由な公権力。 信頼されないのはあるいは当然のことなのかもしれません。 そして事実、今の公権力は大衆の信頼に特別気を遣う必要がありません。 大衆の統制を受けないため、大衆が支持しなくても彼らの権力はそのまま維持されるからです。 政治的に負担になる水準に達した事件を処理する線で終わるだけです。

#2.彼らのパワーゲーム、あなたは排除される

いわゆる「チョンハクサン(チャン・ジャヨン、金学義、バーニングサン)」とも呼ばれる一連の事態により、 捜査権調整問題とからんで検察と警察が互いの容疑をめぐって争うフレームが形成され、 他方では高位公職者を専門に担当するもうひとつの独立した刑事機関 (高位公職者犯罪捜査処、略称公捜処)設置の試みが表面化しています。 明らかに高位公職者や検察・警察に対する大衆的な不信と共に、 彼らの犯罪をさらに強力に捜査して処罰しろという熱望が存在するのは事実です。 しかし捜査権の調整であれ公捜処の新設であれ、 大衆の統制とは無関係な「権力機構間の牽制装置」でしかありません。

公権力が行った犯罪の歴史は 「権力機構間の牽制で民主主義を強化する」という主張がいかに虚構的なのかを見せます。 互いに牽制すると言っていた国家機関はそれぞれ適当に不正を行ったり、 その上裁判取り引き事態のように互いに結託したりもします。 事実、権力機構間の牽制装置はそれ自体では民主主義に固有なものではなく、 特に関係もありません。 これは朝鮮時代にもありました。 監察機構は高位官僚を調査したり弾劾することができ、 政策や措置に反発して団体行動をしたりもしました。 専制王政を制御する水準に及びませんでしたが、 王に対しても史劇でたびたび見られる「なりませぬ、ご了察なさいますよう」を 専門的かつ職業的に遂行する機関でした。

大衆の統制を遮断した状態で、 権力機構間の争闘は文字通り権力者、あるいはそれらの集団の間のパワーゲームに過ぎません。 最も重要な核心から抜け出しているということです。 警察が捜査権を持っても、チャン・ジャヨン氏死亡事件はもちろん、 ユソン企業やサムスン電子サービス労組破壊で警察が使用者側に協力したように、 警察が捜査を怠ければどうする方法もありません。 公捜処を設置するとしても、その公捜処が高位公職者と結託したり、 彼らの犯罪を目をつぶればそれまでです。 公捜処がもうひとつの検察、あるいは検察の上の検察にならないという保障はありません。 決して実質的な権力に対する接近を大衆に認めない、この体制の限界が直ちにここです。

#3.社会主義警察と検察

社会主義でももちろん、刑事司法業務と治安業務は必要です。 社会主義は某アニメーションに出てくる「人類補完計画」のようなものではありませんから、 一瞬にしてすべての犯罪と悪行がなくなり、 人間が和気あいあいに暮らせる夢のようなものではないでしょう。 社会主義は資本主義を代替する新しい社会の「秩序」です。 共同体を守るためには犯罪を予防して処罰することも当然必要です。

もちろん社会主義者は新しい社会で「国家の消滅」を主張します。 これは社会主義以前の国家が少数の権力で多数を支配するしくみなので、 さまざまな複雑な抑圧装置を必要とする反面、 多数者である労働者と民衆が権力を掌握する社会主義では、 多数を抑圧する機構そのものが不必要であるばかりか、 社会の目的にも反するので撤廃しなければならないという意味です。 同時に共同体の運営に必要な行政業務を民主的に統制・運営し、 これまで官僚的・位階的・抑圧的に行われた公権力を質的に変革させるというものです。 つまり、新しい秩序を樹立することであって、秩序自体が完全になくなるのではありません。 私が想像できる社会主義社会では、 共同体と新しい秩序を守るために今の警察と検察のような刑事司法機関もやむをえず必要です。 重要なことは、彼らの権限と機能、運営が今とは完全に違うという点でしょう。

まず法と刑事司法の内容から変わるほかはありません。 端的に、権力はこれ以上資本の私的所有を守りません。 反対に労働者たちが生産権力を掌握し、社会的に富を活用することを擁護します。 たとえば、使用者に対抗して労働者たちがストライキをすると逮捕・鎮圧し、 処罰する法的根拠は撤廃されるでしょう。 しかし労働者の権利を制約したり、社会的に生産した富を利益として一人占めしようとする行為は処罰対象になるでしょう。

今回の主題である権力機関の運営原理に焦点を合わせてみれば、 社会主義の基本的な主張の一つは労働者と民衆が見かけだけの 「名目上の主権者」ではなく、 権力を統制する実質的主体だということです。 その手段にすべての主要公職者を選出することはもちろん、 いつでもリコールできるようにすることでしょう。 たとえば今、国会議員や自治団体長・議員、大統領は選挙で選びますが、 大衆によってリコールはされません。 行政府や司法府は選挙を経ることもありません。 選挙の時だけ在来市場を回って、トッポッキを買って食べて握手をする、 うんざりしたショーを繰り返し、 大衆には自分の職責に対するいかなる実質的責任も負わない者たちが刑事司法はもちろん、 国家行政を実質的に掌握する構造自体を破壊しなければならないのです。

では、すべての警察官や検事を選挙で選ばなければならないのでしょうか? 警察官やヒラ検事のすべてを必ずしも選出する必要はないと考えますが、 どの職責と範囲までを選出するのかという問題は、 共同体の構成員がいくらでも決定することができます。 例えば相対的に大きな権限を委任される総長・庁長、支庁長・地検長などを含む主要職位は、 各級地域や全国次元の選挙で選ぶことができるでしょう。 重要なことはリコールです。 リコールは職責を問わずに適用するのです。 巡査とヒラ検事から警察庁長官と検察総長に至るまで、 不正や犯罪、職務遂行に問題があれば該当地域の住民や、 その代表者の評議会が問題の人物や集団を召喚し、 職務を停止させたり職責を剥奪できるのです。 もし評議会の議員が自分の誤りを隠すために警察や検察をリコールしようとしたとすればどうするのでしょうか? 選出された代表者も当然、常時的なリコールの対象です。 代表者が不正な目的でリコール権を使えば、 直ちにその代表者は自分を選出した住民にリコールされることでしょう。

#4.彼らはずっと存在する。捕えられないだけ

このように、大衆が公権力に対する統制権を持つようになれば、 捜査業務をどの部署が担当するのかの問題は副次的です。 初めから特定機関の強大な権限を牽制しようということが捜査権調整の名分ですが、 その根本的な問題を民主的統制で解決できるからです。 今のように警察と検察二つの組織をどちらも存続させる事もでき、 捜査から起訴までを統合的に進めるように組織を一元化することもできます。 いまや国家機関の権限はこれ以上「独占的特権」ではなく、 「業務」でしかないからです。

上述のように、公捜処も大衆の統制を受けないという点で、 現行の検察・警察と根本的に違わないかもしれません。 もちろん「まったくないよりは公捜処でもあったほうが良い」と考えることもできます。 ひとまず設置されれば、存立の名分のためにも何とか成果を出そうとするでしょう。 しかし特権を享受する高位公職者の集団そのものが存在する限り、 不正は続くほかはありません。 彼らは特権を維持しようとし、その特権を活用して利益を享受しようとする者もいるでしょうから。 公捜処は端緒があらわれれば不正と犯罪に対しては捜査して起訴できても (この場合にも彼らの意志と善意、良心に全的に依存しなければなりません)、 その犯罪を再生産する構造自体を変える解決法ではないでしょう。

いまわれわれは 「なぜ公職が特権になるべきか、 なぜ『高位公職者』という集団が存在するべきか」という 根本的な問いを投げなければなりません。 今も国会議員や高位公務員たちは、言葉では「国民の忠僕」だとか 「特権を下ろす」と言いますが、 実際にこれを強制するしくみがなければ言葉はただむなしいだけです。 社会主義では公捜処を別に置く必要がありません。 社会主義の基本精神は公職にいかなる特権も付与せず、 今にような高位公職者集団の形成そのものを防ぐからです。 1871年、歴史で初の社会主義政権を樹立したパリの労働者民衆は、 公職者を常時リコールできるようにする一方、 彼らに労働者の平均賃金だけを支払って、一切の特権を認めませんでした。 これがまさに社会主義政治の最も基本的な原則だと考えます。

「それでは誰が公職を引き受けようとするか」と反問するかも知れません。 しかし逆に尋ねなければなりません。 社会主義だの何だのを別として、 大衆の統制を受けずに特権を享受する人は、 公職を引き受ける資格がないのが当然ではありませんか? 公職者に対する待遇は、まさにその共同体の構成員が主体的に決める問題です。 公職者が自分の職務をつくして努力と成果を見せれば、 構成員の合意により激励次元でさらに補償をすることもできるでしょう。 もちろん、今と同じ特権水準ではありませんが。

公職がそのまま特権を保証する世の中、「国民の忠僕」ではなく、 国民を従に感じても「高位職」の名札を付けられる世の中、 大衆の統制ではなく上級者と資本の統制に服従する世の中が続く限り、 公捜処を作ってもるとしても金学義「たち」はなくなりません。 捕えられるか、捕えられないかの差があるだけであるでしょう。 「ひっかかる奴がまぬけな奴」という格言が生き生きと生きて呼吸しているからです。 あるいはまったく公捜処も同調者にしてしまうのか、誰が分かるでしょうか。 その時は、「第4の捜査機関」を作ろうという主張が出てくるのでしょうか?(ワーカーズ53号)

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-04-16 19:11:55 / Last modified on 2019-04-16 19:20:02 Copyright: Default

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