本文の先頭へ
LNJ Logo 韓国:市民作り、それも革新・自助・協同の市民
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 201805013
Status: published
View


市民作り、それも革新・自助・協同の市民

[ワーカーズ三行要約]キム・ウンジ、「 『革新的市民性』の意味形成と制度化ー 『希望製作所』と『ソウル革新パーク』を中心に」、ソウル大学校修士学位論文、2017年2月

キム・ソンユン(文化社会研究所所長) 2018.05.21 13:52

▲写真はこの文章と直接の関係がないことを明らかにします。[出処:サゲ]

もうすぐ地方選挙だ。 格別な異変がない限り、朴元淳(パク・ウォンスン)市長の再選の可能性が高いと見られる。 これはつまり朴元淳市長が進めた実験が続く可能性が高いという意味だ。 他の人々は、李明博(イ・ミョンバク)-呉世勲(オ・セフン)のようにスペクタクルではないと蔑んだりもするが、 彼のこの8年の市政のキーワードを選べば「社会革新」ではないかと思う。 彼がソウルという実験室でソフトウェア的な何かを変えようとしたという点には意見の差がないだろう。 キム・ウンジの修士学位論文「『革新的市民性』の意味形成と制度化」によれば、 この実験の意味は「市民作り」なのでないかと思う。 そうだ。私は今、意図的に朴元淳市政の「市民作り」を朴正煕(パク・チョンヒ)時代の 「国民作り」(または運動陣営の「民衆作り」)に比喩している。 こうした比較は2013年のソ・ジュヒョンの論文 「道具化される『共同体』」《(空間と社会》)でも試みられた。 要するにこうだ。 1970年代の国家単位プロジェクトと2010年代のソウル単位プロジェクトの間に形式的に驚くべき相同性があるという意味だ。 脈絡も似ているではないか。 成長の危機の時代を迎え、上部構造の次元、つまり人々の間の関係と、それらの個人の意識次元で革命的な変化が必要だということ。 キム・ウンジは2000年代の市民運動の危機論理、希望製作所とソウル革新パークのプログラム、プログラム参加者のインタビューなどを構造化することにより、 朴元淳時代の市民作りプロジェクトの実体と効果を分析している。 今月の三行要約だ。

  1. 1990年代式の市民運動の限界を越えるために、国政および市政に市民の参加を振興し、微視的な『生活政治』の可能性を企てる。
  2. 『社会革新』というこの新しい運動は、それにふさわしい市民を形成するものだが、ここでは市民の自発性、社会性、創意性といった徳性が重要になる。
  3. ただ、こうした参加と革新は順調とばかりはいえない。実際のプログラム参加者たちは、生計の圧迫を自ら解決しなければならず、実際とは無関係に政治的というレッテルを付けて回らなければならず、行政と市民社会の劣悪な条件で煩悶に陥ったりもする。

朴元淳(パク・ウォンスン)-文在寅(ムン・ジェイン)時代市民改造の基調は、 革新・自助・協同に縮約できるだろう。 これは、労働と生活の倫理が過去と変わったという事実を意味する。 勤勉から革新へ。 今日、われわれは社会を革新しなくてはいけない。 村を作らなければならず、都市を再生しなければならず、 創業(スタートアップ)をする時には社会的価値が何なのかを尋ねなければならない。 ソーシャル、関係、ネットワーク、親密性、相互扶助、ケア、分かち合い、助け、 われわれ、共に、人、メーカー、などなどがここでさまようタグだ。

キム・ウンジの質問はこうだ。 社会革新と革新的市民性が社会運動および政治的主体性にいかなる効果をもたらすのか。 この運動を原点から考察することが重要になる。 彼によれば、2000年代に入って一群の市民運動は、既存の運動の硬直性に問題を提起した。 そして時流に適応することを注文した。 会員を拡充するには生活密着型の議題を発掘しなければならない。 国家を相手にしようとするときは? 場合によっては協力しながら官僚を利用しなければならない。 大企業を牽制するには? 小額株主運動をしなければならない。 …結局、「彼らが標榜する新しい市民運動は、民衆運動との間隙を狭めるのではなく、 むしろそれとの区別を作ることを強化する方向に進むことになる」。 朴元淳という人物がその頂点にいることを否定する人はいないだろう。 朴元淳は英国滞留経験に基づいて、市民社会運動の柔軟性と弾力性というアイデアを渇望した。 組織も構成員も新しくならなければならない。 その上、市長に当選する直前まで、新自由主義の本格化等等によって韓国社会の情緒構造に「協同」の精神が枯渇していたことを思い出す必要があるだろう。 組織も構成員も代案的でなければならない。 つまり、一方では市民社会運動の刷新、 他方では代案的価値の実現という脈絡が二重的に必要だった。

社会革新と市民作りに対する急進的専有

あるいはキム・ウンジが名前付けた「革新的市民性」とは、歴史的に矛盾したものが凝縮された結果かもしれない。 革新的市民性の下位範疇を見てみよう。 彼がいう「自発的市民性」は、典型的な新自由主義的自己責任倫理を、 「社会的市民性」は破壊されたと仮定される過去の時代の協同精神を、 「創意的市民性」は低成長・ニュー・ノーマル時代の革新的アイデアとプログラムを それぞれ示している。 まさに新しいことはないが、全てが新しいではないか。 結果的に、朴元淳時代に強調される市民性は、全的に新しいものだけではないが、 すでにあるものを新しい方式で組み合わせることにより、特定の社会的効果を狙う。

続く関心は大きく2種類だろう。 一つは「その」社会的効果が実際に起きるのかということ。 しかしキム・ウンジのインタビューの結果では、その展望が順調とばかりはいえないようだ。 実際に多くのプランナー・活動家らが社会革新プログラムに参加する時に経験する矛盾、 つまり行政の権威主義的慣行や市民社会の脆弱な共同体性のような問題が足を引っ張るのだ。 その他にも、暮らしは味気ないが「自助」的に克服しなければならず、 自己は社会活動をしていると感じているのに、他人は政治運動をしているというので身動きの幅も自由ではないことが多い。

二番目の焦点は、これらの難関を克服すれば、本当に世の中が良くなるのかということだ。 この点で社会革新の論理が「既存の社会運動が語る『民主主義』と『政治』の可能性を周辺化しながら作動しているという点」は、決定的な弱点になる。 例えば、誰が見ても明確なほどに中間階級・有限階級に偏向的な社会革新から社会的排除を克服する端緒を見つけられるだろうか。 彼が言うように、国家・資本に対する市民社会的な敵対を協力に純化する努力が見られるだけなのにだ。 実際にヒューマニズム的な連帯を語る人はいても、階級敵対を語る人は見つけ難い。

ただし、キム・ウンジは一群の人々が今の状況を 「さらに急進的に専有して、権力の不平等に直接的な問題を提起」していることを思い出しつつ、未熟な結論を警戒する。 朴元淳の市民作りが新自由主義的な市民参加モデルに属するとしても、 それが市民にそのまま適用されることはないだろうという話であるわけだ。 社会革新と市民作りに対する急進的専有は可能だろうか。 もちろん、一つ確実なことは、革新的な市民作りプロジェクトによって市民の参加の機会と幅がそれだけ広がったという事実であろう。 市民はさらに多くのものを要求する機会を得た計算だが、 与えられた歴史の中でこれからどんな市民がどんな要求をするようになるのかは、 見守るべき問題だったようだ。[ワーカーズ42号]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-07-16 09:55:25 / Last modified on 2018-07-16 09:55:26 Copyright: Default

関連記事キーワード



世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について