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News Item 20170903
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先輩の福祉は元気ですか?

[ワーカーズ イシュー] 1997.1121.20000.982

キム・ハンジュ、パク・タソル、ユン・ジヨン記者 2017.08.31 13:46

療養保護士クォン・オクチャ

今回は適性にぴったりな仕事だと思った。 自分のように老いていく老人を世話する仕事はかなり意味があった。 お金ばかり好む会社のために忠誠をつくさなくてもいいという点も気に入った。 長い間、回り回ってここまできたので、 過去の傷と怒りを忘れて新しく始めようと決心した。 2010年、清州市老人専門病院に入社したクォン・オクチャ(63)氏は 「療養保護士」という職業で人生第2幕の第一歩を踏み出した。

それから6年後。 クォン氏は清州市庁前広場で自分のからだにガソリンをかぶった。 28日間断食をして、体はもう壊れるだけ壊れていた。 焼身を試みたクォン氏はすぐに病院に運ばれた。 当時、彼女の年齢は62歳。 清州市老人専門病院から解雇された状態であった。 長い間回り回って、クォン氏はまた同じ場所をうろうろしていた。

すべての社会が外国為替危機で凍りついた90年代後半。 クォン氏は米国資本のアプライド・マテリアルズ・コリア(AMK)で生産職労働者として働いていた。 彼女は工場でコンピュータヘッドを組み立てる仕事をした。 職員350人規模の工場で、男性職員はすべて管理者で、女性職員はすべて生産職だった。 AMKは1934年から韓国に進出したかなり歴史が深い会社で、 ソウルと春川、清州など3か所で工場を運営していた。

外国為替危機になり、工場では仕事が増えなくなかった。 だが会社の雰囲気はおかしかった。 無理だと思うほど、新入社員を採用しまくった。 そうした後、無給休暇に出した。 会社が狂っのかという気がした。 だが会社はまた新入社員を採用し、無給休暇に出すというおかしな行動を繰り返した。 クォン氏は後で分かった。 当時、政府は外国為替危機で急増した失業率問題を緩和するために、 労働者を新規採用した中小企業に支援金を支払っていた。

外国為替危機の余波の中でも会社はそれなりに運営されていた。 だが2000年、正月を過ごして会社に復帰した労働者たちは、 会社がつぶれたという突然の通知を受けた。 AMKは米国内の親会社が不渡りを出したとし、会社を不渡りにした。 労働者たちには退職金の50%程度しか支払わないと通知した。 工場を閉鎖して春川工場を始めソウルと清州工場を次々と撤収した。 職場閉鎖を断行する過程で、会社は政府の中小企業支援税金返還政策を利用し、 総額56億ウォンを政府から返してもらった。 そして工場はインドネシアに移転した。 5年3か月間、身を置いていたクォン氏の職場はそのようにしてなくなった。

クォン氏をはじめとする労働者たちは、雇用継承と退職慰労金支払いを要求して132日間テント座り込みをした。 四か月以上、路上で生活をしたため重い病気にかかった。 だが寝ているわけにはいかなかった。 建設現場で働く夫は仕事がなくて苦しんでいた。 高校生、大学生になった子供にかかる金も少なくなかった。 クォン氏は別の会社を見つけて入った。 今回はスイス資本のネスレの下請業者であった。 笑わせることだった。 AMKで味わったとんでもないことが、ネスレでも堂々と起きていた。 人を採用しておきながら、仕事があるのに無給休職に出した。 鬱憤が沸き上がった。 また戦わなければと考えると、目の前がまっくらになった。 悪夢のような記憶を思い出して、結局戦いを放棄した。 クォン氏は自分から会社を辞めた。

その後、片っ端から仕事をして生計を立てた。 さまざまな仕事を転々としたクォン氏が最後に選択したのは療養保護士だ。 それはクォン氏の最後の希望でもあった。 だが24時間の二交代勤務とネズミ尻尾のような賃金、 休み時間も保障されない劣悪な労働環境は、 クォン氏と同僚の人生を削った。 それで労働組合を結成して、勤務形態の改善を要求した。

すると病院は用役を投入し、労組破壊専門家を雇用して、労働者たちを懲戒、解雇した。 過去の傷と怒りがそのまま戻ってきて、胸にわだかまりを作った。 昨年、クォン氏は30日以上食を断ち、1年近く座り込み闘争をした。 今、彼女は切ることができない苦痛はいつかは戻ってくるということに気付いた。 クォン氏はもうこの20年の時間を取り返す戦いを続けている。

社会福祉士志望者カン・ウンジュ

カン・ウンジュ(25)氏の夢は社会福祉士だ。 大学進学でも迷うことなく社会福祉学科を選択した。 あるいは必然的な選択だった。 両親のつらい人生と長い間の貧困を経験した彼女は、 他人の困窮した人生にも視線を奪われた。 自分と同じ困難を持った人々の力になりたかった。

カン氏のお父さんは20年間、中古車売買事業で生計を立てた。 90年代中盤までは「マイカー世代」という好況期が続き、暮らしに困らなかった。 しかし、そこまでだった。 97年、外国為替危機が迫り、自動車を買う人は見つからなかった。 そしてお父さんの事業も終わった。 お父さんは公認仲介士に挑戦したが、それもうまく行かなかった。 その後は家に青い錠剤が溜まっていった。 何の薬かとお母さんに聞くと、お前は見てはいけないと厳しく叱られたことを思い出す。 お父さんはその当時、バイアグラを密輸入していた。 だが何をしてもだめな時代だった。 お父さんは建設現場の仕事を始め、現在も日雇い労働者として暮らしている。

お母さんは30年間ミシンを回した。 深夜に家に戻るお母さんのまつげの上には白いホコリが溜まっていた。 お母さんが働いている工場についていったこともある。 ビルの地下奥深いところにある工場に降りて行きながら 「なぜこんなにずっと降りて行くの?」とお母さんに聞いたことを思い出す。 しばらく降りて到着した工場は、狭くて窓もなく、ふとんの糸屑がふわふわと漂う所だった。 お母さんはそこで一日12時間以上働いた。 両親の厳しい人生とは違い、内部の事情はますます傾いていった。 カン氏が小学校に入学する頃には三部屋の家を出て、一間の家に引越した。 10歳上のお姉さんは家を出て、三人家族が一間で生活した。

2012年に大学に入学した時は、人生のひとつの峠を越したという安堵感がわいた。 もう少し我慢すれば、私がしたい仕事をして金を稼げるだろうと思った。 カン氏は国家奨学金所得分位審査で1分位に分類されて奨学金の支援を受けた。 それでも2千万ウォンもの学資ローンの借金が残っていた。 アルバイトは必須だった。 専攻を生かして、有名救護団体で働くことにした。 なぜか夢に一歩近づいたようでうれしかった。

カン氏は救護団体の募金電話相談業務を半年間した。 2年間は路上の募金活動をした。 働けば働くほど、何か少し歪んでいる感じがした。 カン氏のような募金活動は救護団体ではなく下請企業が管理した。 下請の管理者は毎朝8時、カン氏のような青年たちを事務室に呼び集めた。 一時間ほど続いたミーティングで、管理者は 「皆さんも努力すればいくらでも成功できます」と話した。 彼らの関心は「救護活動」ではなく「ノルマの達成」に注がれていた。 カン氏が望んでいた社会福祉活動は、多段階下請企業の姿をしていた。

彼はいつも不思議だった。 今までこれほど一生懸命働いたのに、なぜ我が家はますます貧しくなるのか。 20歳を越えてやってぼんやりとわかるようになった。 単に彼の両親だけの問題ではないということを。 社会の構造的問題が彼の両親を、そして彼をずっと貧困の中に押込んでいたという事実を。 カン氏は現在、通信販売業で短期契約職として働いている。 月150万ウォンほどの最低賃金で自炊をしている。 考試院とワンルームを転々として、今は月貰35万ウォンの部屋に住む。 公共料金、通信費、交通費を除けば生活費はギリギリだ。 それでもたまにお金を貯めて両親の世話をして差し上げたりする。

今までずいぶん多くのことを諦めて生きてきたし、 相変らず諦めなければならないことは多いかもしれない。 だがカン氏は自らをなぐさめる。 それは明らかにカン氏だけの問題でないと。 それで彼は相変らず社会福祉士を夢見ている。 今までの歪んだ社会をまっすぐに開くことができる、 もっと積極的な社会運動を作っていきたいという夢だ。

原文(ワーカーズ/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-10 23:44:14 / Last modified on 2017-09-10 23:44:16 Copyright: Default

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