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News Item 20170408
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「消費振興」ではなく「賃上げ」を

[ワーカーズ]君と私の階級意識

オ・スンウン(全国公共運輸労組政策企画次長) 2017.04.03 15:52

大韓民国の家計消費萎縮を心配する声が高い。 経済専門家、政治家、言論も、家計消費が増えなければ金が回らず、経済が解けないと。 この前発表された前年度の家計動向統計についても、消費の減少に注目する分析記事が並んだ。 基本所得の話題性も冷めそうにない。

しばしば金が回るということは、資本の生産的消費(投資)が活発化しているという状況で描写されてきた。 しかしもう家計消費のために金が回らないとは。 国の経済において財閥より平凡な者の財布事情の方が重要だということに突然気付いたのだろうか? もっとも、家賃、教育費、両親の医療費に充てるには、本人の能力でも努力でもなく、月給が足りないと不平を言うのがまさに最近の人々だ。 彼らにとって家計消費が問題だという相次ぐ診断は、私たちの月給の話と受けとめられるのは明らかだ。

同時に家計消費を強調するいろいろな話は、なぜか月給の話を迂回しようとする。 朴槿恵政権だけを見てもそうだ。 家計消費振興を試みながら、朴槿恵政権が作り出したのは体系的な賃金所得増加策ではなく、 臨時公休日とブラックフライデーだった。 これらのイベントで瞬間的に売り上げを増加させるという緊急輸血を受けた財界は、 同時に労働者が金を使う余裕がなければ経済が生き返らないことを知った国民が、 賃上げと労働時間の短縮まで要求するのではないかと戦々恐々としている。 それどころか、朴槿恵政権は海外からの受注が急減して資本収益率が下がるという宣伝を続け、関連業界の大量解雇対策もたてなかった。 むしろ公共部門から、直間接的な賃金削減の試みで埋め尽くされた「労働改悪」を押し通した。

[出処:資料写真]

家計消費を増やさなければならないと言っていたのに、なぜだろうか? そもそも「消費」というものに陥穽があるのではないかと考える価値がある。 消費そのものに目標が合わされるほど、消費する金の出処や長期的効果は重要ではなくなるということだ。

事実、労働者の財布には余裕の金がないのが問題なら、政府がその時々にさっさと余裕の金を作り出すこともできる。 必ずしも現金を握らせる必要はない。 公共料金を削ったり、ラーメン代、肉の値上げを制止するなど、全般的な生活消費者物価を下げることでも類似の効果をあげられる。 所得を増大しなくても金を残す方式だ。 問題はそれが誰の利益になるのかだ。

消費振興の意志が物価下落と手を握る経済方針は、労働現場や社会サービスを悪化させるブーメランになりかねない。 例えば宅配費がさらに安くなるかもしれない。 学校給食室の人員が減り、食材費が下がり、生活廃棄物処理や地下鉄の安全業務がさらに安くて危険になりかねない。 賃金上昇が抑制できないわけでもない。 零細自営業者にとっては時給こそ一番敏感な「消費者価格」ではないか。

結局、財布を開くためにまず賃金を支えなければならないというのは、労働者階級にも合理的な常識だ。 資本家にとってはせいぜい「不都合な真実」だ。 だから資本主義社会を生きていくわれわれは、この階級的利害に合わせて韓国経済の指向するところを「家計消費振興」ではなく「賃上げ」に照準をあてるのが自然だ。 そしてその試みは最低賃金闘争と本当によく似合う。

最低賃金。 進歩陣営にはこの四文字を敬遠する人もいる。 最低級の人員で最低の生活を連想させる否定的ニュアンスのためだ。 最低限の生計で我慢するから保障だけはしてくれという受動的な呼び掛けに見えるかと心配しているわけだ。 しかし「最低限の生計」が自然に決まるわけがない。 研究や討論により、きちんと合意されているものでもない。 それよりも社会的に作られると見なければならない。

賃金の大きさも同じだ。 資本論で社会的関係に注目し、資本主義の原理を分析したマルクスは、 賃金を労働者が労働の代価として受け取る金ではなく、 労働者とその家族の暮らしが再生産(いわゆる労働力という商品の再生産)されるのにかかる費用と分析した。 まさにそれがその話であるかのように聞こえるだろうが、このような理解を受け入れれば、 資本主義社会における賃金は労働者が市場で一生懸命に消費したり直接消費する金の問題だけではなくなる。 それよりも、賃金は労働現場のあらゆる問題、そして福祉社会とも密接な何かであると考察される。 例えば賃金が職場で消耗した労働力を回復し、次の出勤を準備するためにかかる費用なら、 賃金闘争はその労働力減少の程度に直接影響する労働時間、労働条件、労働組織をめぐる闘争とも決して別個ではない。 では賃金闘争は私たちが職場を離れて財布を開き、労働の憂いをなだめる時だけでなく、 まさにその職場で労働する過程においても、さらに人間らしくあるための戦いだ。 このような脈絡で、マルクスは賃金の大きさがある社会の安寧と労働者階級の要求闘争を反映すると見た。

この延長線で、賃金は労働者の(たとえ実態をきちんと反映しない見かけだけでも)食費、危険手当、勤続手当、週休手当、老後保障費などがさらに社会的に要求され、また、認められる時に始めて引き上げられるものでもある。 社会保険も同じだ。 労働者が自分の労働力を保全するために適時に適切な治療を受けようとすれば、その社会は良質の保健医療体系が作動していなければならない。 ある社会ではそうしたサービスが無償であるべきだという合意に基づいて、全国民の賃金額に医療保険料が含まれていたりもする。 人によって寄与の程度に差異があるだけで、保健医療費が人間の生に必須の費用であることが認められるのだ。

労働者だけではない。 子供と両親、家庭の主婦、老人、障害者、引退者、失業者など、資本に直接雇用されない人々と、いわゆる社会的弱者に回る手当も賃金を通じて支払われたり基金化されている。 多少理論的だが、これである社会の総賃金は労働者階級と共同体の要求が資本側に直接的かつ具体的に貫徹されることにより、図体を膨らませると想像することができる。 労働者が望む福祉社会の実現も、まさにその総賃金にかかっている。

これほどなら、最低賃金の意味も違って吟味される。 賃金がかかるのが私たちの生活と生涯、社会全体なら、生計の「最低限」と賃金の「最低」は、 階級闘争の最も高いところと違わない。 私が「最低賃金1万ウォン」の闘争を、さまざまな限界と批判にもかかわらず、 韓国経済に対する観点を資本から労働に回すための大胆な宣言と見る理由だ。 すでに、もう退く所がない労働者庶民の耳に対し、せいぜい「家計消費」とやらを口にする資本家とそのグループの前でだ。

最低賃金1万ウォン。 もちろんただで得られはしないだろう。 国家と政界の前向きな姿勢より、毎日の労働現場で労働者階級を強め、団結して連帯する方が重要な戦いだ。 だから共に叫び、想像することから始めよう。 「消費振興より私たちに必要なのは賃金であり、人生だ。 より良い労働がある社会だ!」[ワーカーズ29号]

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-04-10 19:30:48 / Last modified on 2017-04-10 19:30:50 Copyright: Default

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