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また韓進重工業の女性溶接工、キム・ジンスク

[インタビュー] 「工場に戻らなければ私の人生は一生さまよって終わりそうです」

ユン・ジヨン記者 2020.08.28 21:12

▲24歳、大韓造船公社溶接工時期のキム・ジンスク指導委員[出処:キム・ジンスク指導委員]

26の勢いいっぱいだった造船所の女性溶接工が61歳になった。 世の中と猛烈に戦ったので、歳月がそのように流れたのかもしれなかった。 彼女のしぶとい闘争と、鬱憤に充ちた演説を記憶する人々も、 これまでその歳月を忘れていた。 彼女が35年を解雇者として生きてきたとのいうこと。 そしてその長い歳月、切実に復職を願ってきたということも。 26の時に大韓造船公社(現韓進重工業)を解雇されたキム・ジンスク 民主労総釜山本部指導委員が今年還暦をむかえた。 そして今年末の定年を控えて元職復帰闘争に立ち上がった。 長い間、烈士を呼んでいた彼女が、今、自分の名前を叫び始めた。 最初の造船所女性溶接工で、韓進重工業の最後の解雇者。 大韓造船公社船殻工事部船台組立課の溶接1職、社番23733キム・ジンスク。 彼女と釜山で会った。

「そこに戻らなければ、私の人生は一生さまよって終わりそうです」

「歳月はまちがいなくその歳月なのに私だけが老人になって、 その歳月の前にひとりで立ち向かいました。 過去が続くことを認めることもできず、 未来を準備することもできない私は、 過去からも、未来からも孤立させられました。」

2010.1.19.民主労総釜山本部ホームページにあげた文より

「35年なら短い歳月ではありませんね」。 彼女の最初の一言はこのようだった。 遥かな歳月の前に、記憶も、鬱憤も削れて減っていくものだが、 相変らずその全てが生々しい。 5千人以上の労働者を率いた造船所工場。 トイレ一つなく、小便は海辺で、代弁は治具台の下で解決しなければならなかった時期。 彼女は1981年に大韓造船公社の訓練生として入り、 シャベルとリヤカーで干上がったクソを片づけることからした。 これほど大きな造船所にどうしてトイレ一つないのかと尋ねると、 会社は逆に「男どうしでなぜトイレが必要か? 影島の地価は高いんだ」 と声を高めた。 管理職は食堂で食事をし、生産職は工場の床に座って650ウォンの弁当を食べた。 毎朝、弁当をいっぱいにのせた車両が工場の床に弁当を注ぎ込んだ。 ふたが開かれたまま乱雑に広く散らかっている弁当をネズミが先に食い荒らした。 いつも黒い麦飯と玉ネギ三、四片、 干からびたキムチがすべてだった。 労働者たちは工業用水をご飯にかけてずるずる飲んではまた働いた。

人もたくさん死んだ。 溶接で感電して死に、鉄板に敷かれて死に、足場から落ちて死んだ。 人が死んでもがやがや言うことはなかった。 頭が割れて脳髄が破片のように散った現場を見ても 「また一つ割れた」。それだけだった。 仮溶接された鉄板が彼女に倒れかかり、両足が折れたこともあった。 病院に同僚が訪ねてきて「三神ハルメは助けようとしたようだ」と言った。 事故を体験してからは、彼らがなぜ同僚の死に鈍感にならざるをえなかったのかを悟った。 彼の死を自分の死だと考え始めると、そこで耐える才覚がなかった。 彼は毎日、溶接の火花を受けて働いた。 顔と瞳に火の粉が飛び散るたびに点点と黒い傷がシミのように広まり始めた。 溶接の火花でよく肉が焼けるにおいがした。

御用労組を民主化させれば死の現場を変えられると考えた。 労組の代議員に当選した彼女は、御用労組が行った不正を暴露した。 だが戻ってきたのは、影島造船所から車で一時間の距離の職業訓練所に出勤しろという部署移動命令だった。 不当な発令で労組活動の弾圧だとし、これを拒否すると、 会社は命令不服従で彼女を解雇した。 1986年7月14日。 入社5年目のことだった。 それで彼女が記憶する影島造船所現場は相変らず35年前、26歳の時で止まっている。 そんなに良い記憶でもないが、また苦労する理由がないのに、 なぜ彼女は35年の歳月に逆らって、またそこに戻りたかったのだろうか。

「そこに戻らなければ、そのまま私の人生は一生をさまよって終わりそうです。 自分の足で出てきたのではないから。 私が悪かったのでもないのに、35年間工場に戻れなかったですから。 26歳の時。 私がなぜ解雇されなければならないのか、まったく理解できませんでした。 私はその時、政権がどうなのかも知らず。 本当にその時はなぜそんなに無知だったのでしょう。 警備のおじさんにあれほど殴られたのに、ただ挨拶しました。 そんな工場に行きたいのです。 工場でああして引き出されてから今まで立入禁止状態です。 (解雇された後)その工場に入ったのはパク・チャンスの葬儀、 キム・ジュイクの葬儀、チェ・ガンソの葬儀、そしてクレーンに上がった時。 それがすべてです。 そのように闘争したから、工場に食堂もできてトイレもできたというのに、 私はあそこに行くことができませんでした。

復職闘争をやり直して、胸が痛む電話を何回か受けました。 韓国社会がすべて民主化されたように、以前民主化運動をしていた人たちが復権して、 元の位置に行ったようにいいますが、 解雇された労働者は相変らずそのまま暮らしました。 盧泰愚(ノ・テウ)政権の時に解雇されて拘束された (釜山プンサン金属の)労働者33人は、たった一人も復職していないという事実を 私も忘れていました。

私が出勤闘争をする夜明けに二人の女性労働者がきます。 昔の靴工場の解雇者たち。 ひとりは三和ゴム、もうひとりはチヤンゴム。 名前も、故郷も、人生も、自尊感もなかった労働者たち。 もらったご飯、もらった服を着て、その日の晩にトークンが出てくれば残業をして、 食券が出てくれば徹夜をした労働者たち。 そのようにして暮らした人々が労働組合するとみんな解雇されました。 その時は救社隊がみんなゴロツキだったんです。 彼らが投げた石に当たって鼻骨が折れて、 クソが入ったビニール袋に当たり、 労働者ひとりはエレベーターで性暴行され、 すべて服がはだけたままワゴン車にのせられてゴミ荷置場に捨てられて。 そんな労働者たちの誰も復職した人はいません。 もう60になった人たちが夜明けに復職闘争をして、 また非正規職の生活を送るために出勤します。 そんな労働者を誰も覚えていません。 永遠に捨てられた労働者数千人がまだどこかをさまよっているのです。」

「人が二人も死んで復職できると言われ、心臓がどきどきしました」

北側の人だった彼女のお父さんは、名節になると酒を飲んで泣いた。 以前はその姿が酷く貧乏臭く思われたが、解雇者として35年暮らしてみると、 今はその気持ちがわかる。 あまりにも戻りたいが、戻れない禁じられた土地が存在するということ。 静かに考えに追われていても涙が出ることだった。 2003年、キム・ジュイク、クァク・ジェギュ烈士の死後、残った3人の解雇者のうち 二人が復職した。 自分も工場に戻れると考えたが、最後の解雇者になって残った歳月はすでに17年だ。 人々にはとても話せなかったが、彼女は復職の期待と挫折を何回も味わい胸を痛めた。 2009年11月には民主化運動名誉回復および補償審議委員会が、 キム・ジンスクの解雇は不当だという決定をしたが、会社はこれを受け入れなかった。 2003年と2010年、韓進重工業の整理解雇の嵐の中で、 彼女の復職はいつも後に押しやられた。 いつどこででも勢いいっぱいだった彼女が、 戻ることができない工場のことを話しながら、ただ涙を流す。

「なぜ私だけが(復職から)抜けたのか理解できませんでした。 誰も私にきちんと説明したり、納得できるような根拠を話してくれなかったのです。 2003年10月、キム・ジュイク支会長がクレーンで首を吊り、 2週間後にクァク・ジェギュ同志がドックから身を投げました。 二人もそうなったので、会社が急激に動きました。 その時、支部長が私を呼び『解雇者が復職できそうです』と言います。 人の心は本当にそんなもので、心臓が高鳴りました。 人が二人も死んで、復職できるというのがうれしかったんですよ。 復職すれば工場に戻って、ジュイク氏やジェギュさんの分まで働かなければならない、 そう考えました。 嬉しい素振りもできなかったのですが、支部長が言うには 『しかしキム指導委員はだめだそうです』と。 しばらく言葉が出なかったのですが、なぜですかと尋ねたところ 『経済人総連が反対したそうです』と言いました。 私は経済人総連を知りもしないのに、いったいなぜ経済人総連が私に反対するのか。 なぜ反対するのかと聞くと、知らないと。 会社がそう言ったというのです。

キム・ジュイク支会長が死んだ時は組合員たちがご飯を食べました。 しかしジェギュさんまでそうなった時、誰もご飯を食べないのです。 ただ酒を飲むだけです。 あちこちで泣くばかりで。 その時、会社と合意をしたのですが、他の要求はほとんどが受け入れられました。 解雇者復職も慣例のとおり案件に入ったし、 一方の仲裁条項(スト権を侵害する代表的毒素条項)まで解決しました。 結局、私の復職一つが残ったのですが、 そこで『私も復職しなければならないのではありませんか?』そう言えませんでした。 労組が『来年は必ず復職させますよ』というので『分かりました』と言いました。 そして2006年に復職した二人が工場に戻った後、正門が閉じられて… その日、一人で歩いて、永渡橋を渡ると、どっと涙が出ました。 それでも来年には復職させてくれるというから、それなのに15年が流れました。

2008年の労使交渉の時には労組幹部に電話が来ました。 労使が賃金団体協議暫定合意をしたという知らせだったのですが、 わざわざ私に電話する理由がありません。 何かうまくいったようだ、という気がして、その時また心臓が高鳴るのです。 それで私がまず『どうなったか』と尋ねました。 彼が言うには『使用者側で月200万ウォンずつ生計費を払うことにしたので、 そう思え』と… 心臓がどきっとしました。 『使用者側がなぜ200万ウォンを払うのですか?』と尋ねると、 その人は当惑したようです。 私が喜ぶと思ったのに。 それでも会社が責任を取るだろうと言います。 それで『その金は復職を避ける手段です。 復職させるなら今すれば良いのに、なぜ200万ウォンをくれるのですか。 私はその(合意)案は受けられません』、そう言いました。 するとその金を受け取って、非正規職基金に出しなさいと。 私は2百でも2千でもいらないから復職すると言い、その暫定合意案は廃棄されました。 その後、使用者側は私が復職を拒否したとうわさを立てました。」

▲21歳、職業訓練所修了当時のキム・ジンスク指導委員[出処:キム・ジンスク指導委員]

労使交渉で解雇者復職はいつも慣行のように扱われた。 1988年には解雇者復職を要求して労組がストライキもした。 解雇当事者の彼女はストライキの現場で組合員に、 解雇者の復職がなぜ重要なのかを説明した。 すると彼女に『第三者介入禁止』違反の容疑がかぶせられた。 そして1990年に拘束されて145日を監獄で暮らした。 1988年には解雇者復職を要求してハンストもした。 彼女を含む3人の解雇者と5人の労働者が工場の前でラーメンのダンボールを敷いてハンストを始めた。 会社はすぐに工場を閉鎖した。 労働者の家族が訪ねてきて 『工場の門を閉じればうちの子はどうするのか』と訴えた。 結局、8日でハンストをやめた。

2009年の冬、民主化運動名誉回復および補償審議委員会から不当解雇を認められた後、 また1人デモを始めた。 24日間のハンストもした。 鋭い寒波にからだが凍りつき、指が凍えたが、 当時労組は労組の事務室に入れないようにした。 1人デモのプラカードを持つことも防いだ。 電気カーペットでも敷こうと発電機を回せば、油が惜しいと言ってそれまで奪っていった。 彼女を冷たい街頭に追いやった労組の執行部は、後日、金属労組から脱退して 企業労組を作った。 キム指導委員は、そうして1年2か月を戦い続けた。 そしてその頃、会社が整理解雇を発表した。 キム・ジュイク、クァク・ジェギュ二つの同志|仲間を死に追い込んだ大規模構造調整の亡霊がまた一度垂れていた。2011年1月6日明け方. 彼は整理解雇撤回を要求しながら、35m高さの85号クレーンに上がった。8年前、キム・ジュイク烈士が構造調整撤回を要求しながら、129日間座り込みを繰り広げて自ら命を絶った場所だった。そのように彼は復職の折返し点に至れないまま、また一度構造調整という狂風と対抗しなければならなかった。

「ジュイク氏が粘った129日が希望でした」

「私はジュイクさんができなかったこと、 とてもやりたかったのに、結局できなかった自分の足でクレーンから 降りて行くことを必ずします。 そうすればこの85号クレーンがもはや死ではなく、もはや涙ではなく、 もはや恨みや悲しみではなく、勝利と復活になるように、私の全力をつくします。」
2011/1/7 85号クレーンに上がった次の日、キム・ジンスクの手紙より

その年の冬、釜山は96年ぶりの厳しい寒さで凍りついた。 濃厚な闇がたれこめた午前3時、彼女は韓進重工業の85号クレーン前に こっそり忍び込んだ。 クレーンの入口は太い錠が掛かった鎖で堅く締められていた。 前もって持ってきたカッターで鎖を切り始めた。 鋭い風で指先が痛くなってきたが、鎖は簡単には切れなかった。 あちこちに配置された警備警戒所を見ながら休まずに鉄を切って、また切った。 遅くとも夜が明ける前にはクレーンに上がらなければならなかった。 背に冷や汗が流れた。 一時間二十分で、固い鎖がバチッと切れた。 すぐ彼女は高さ35mのクレーンに上がり、309日間の高空籠城を始めた。

「400人の整理解雇リストを見てあきれました。 (リストに載った)ある友人は、2003年には労組幹部だったが、 その年に娘が生まれました。 脊椎が曲がった深刻な障害を持って生まれ、 今も一年に一回は手術をしなければならない子供でした。 生まれてから自分の足で立ったことがない子供。 その友人は今、目に黄斑変成ができて、視力をどんどん失っています。 その友人の名前もありました。 別の1人はお父さんが韓進重工業の馬山工場で働いていたのですが、 定年退職後に嘱託職として働くことにしました。 しかし会社がその約束を守らず、お父さんが首を吊りました。 お父さんがそのように死んでから、会社が息子を就職させたのです。 その息子もリストに入っていた。 お父さんの名誉退職を条件に、解雇はしないという息子の名前も入っていた。

本当にこれでも人間なのか。 2003年に二人が死んで、整理解雇しないと約束した特別団体協約を破ったのも腹立たしいが、 そのひとりひとりの労働者の生存と子供の未来までかかったことを何でもないように決めるということが容赦できませんでした。 いくら考えてもクレーンに上がることしか、できるのがありませんでした。 死ななければ終わらない戦いで、 本当に上がって死ななければいけないのかもしれず、 生きて降りてきても拘束されるのに、誰にやれと言えるでしょうか。 そう決心したら、本当に楽でした。 私にできることがあるということが。」

キム・ジュイク支会長が129日暮らした85号クレーンに上がった日。 やはり2003年の悲劇が思い出された。 クレーンからキム・ジュイク烈士の遺体が降りてきて、 ドックの地面にクァク・ジェギュ烈士の遺体が上がってきた死の工場。 一つの工場で二人の労働者が合同葬儀を行ったその日の場面が頭の中を駆け巡った。 パク・チャンス、キム・ジュイク、クァク・ジェギュ、そしてその後、 チェ・ガンソ烈士まで。 仲間たちを見送るたびに彼らを守れなかったという負債感が積もり積もった。 それらは長い間、彼女の人生を押さえ付け、深い傷と自責は治らなかった。 クレーンに上がった彼女は、キム・ジュイク支会長の果たせなかった願い、 生きて85号クレーンから降りて行くことをやり抜くと約束した。 そしてそこで烈士が見た世の中を見て、彼が体験した痛みを経験した。 クレーンの下をうろうろしていた組合員がいつのまにか見えなくなった時。 集会の規模がますます減るのを見る時。 世の中から孤立していくという不安感が襲う時。 彼女はぴったり129日まで粘ろうと歯をくいしばった。 それを唯一の希望としている頃、希望バスが彼女を訪ねてきた。

「ジュイク氏が粘った129日が希望でした。 129日粘れば死んでもいいと思いました。 その時になれば私がどんな選択をしても、悪口もあまり言われないかと思って。 警察や会社の挑発は耐えられました。 しかし民主労総金属労組に所属する労組の執行部が、 民主労働党の党員でもあるその人々が、 組合員たちがクレーン近所にくるのを防ぎました。 キム・ジンスクが自分の政治的野心のためにクレーンに上がったと話しました。 クレーンの下で集会もさせませんでした。 その上、労組幹部という人が私を引き下ろすと言って、大きなハンマーを持ってきたりもしました。 侮辱感、それに耐えるのが難しかったです。 自分の状態を知っている仲間たちは、夜にひそかに私を引き出そうとしたそうです。 麻酔銃まで考えたといいます。 しかし私を引き出すのではなく、 自分の足で歩いて降りて行ける方法を探すべきでした。

クレーンの上にいると五感が開かれます。 あたかも目がもう一つあるかのように、全てのが隅々まで見えます。 組合員が1200人から60人になった日、 ジュイク氏が首を吊ったことを知っているから、 私はただこだわってはいけないと考えました。 しかし死力をつくしても状況がますます難しくなるから。 そして私も人なので、私がここで粘っていることが組合員たちをさらに苦しめるという気がし始めました。 組合員たちの選択を邪魔しているようで。 しかし、その時に希望バスがくると言われました。

初めは、来ても何人来るのかと思いました。 集会や何かをして、希望バスというようだ、そう言いました。 しかし1次希望バスがきて、2次、3次と続くと、希望バスを待つようになりました。 何か戦っている感じがしました。 キム・ヨジンと遊び人外部勢力は、クレーンの下で笑いながら踊りました。 「厳密・謹厳・真摯」の歴史がある85号クレーンで笑って踊るなんて、とんでもなく不らちです。 キム・ヨジン氏が「笑いながら最後まで共に闘争」という文句を書いてクレーンに載せた時、 何かが開いた感じでした。 クレーンで二回目の葬儀をしなくても良いんだな、という気がして、 私もとても変わりました。 5次まで続いた希望バスは、歴史の塀を越えました。 韓進重工業の塀を越えたのは、私たちにとっては突破の歴史だったんです。 民主労総の組合員だけでなく、一般市民が集まり、 新しい連帯の典型を見せる事件でした。」

「私はいかにそれらを無視して生きてきたのか」

「その時期を考える時、 一番自分に恥ずかしくて腹が立つのは、 18歳の年齢でどうしてそんなにすべての事を諦めて、 なぜそんなに堂々としていなかったのだろうかと思うことだ...(中略)... 結局私はその子たちに何もしてやれないまま、 自分自身にも何もしてやれないまま...」
-キム・ジンスク《塩の花の木》より

309日高空で暮らして降りてきた。 仲間を守れなかったという罪悪感に8年間、ボイラーもつけずに野宿で寝た。 5年間手配生活もして、ハンストもした。 3回対共分室に連れて行かれて拷問を受け、二回収監生活をした。 苦難で屈曲した歳月を過ごすことに忙しくて、 まさに自分がどんな生活を送ってきたのかを忘れていた。 その時間を粘り耐える体力で健康だと過信して、 自分のからだ面倒を見ることを怠った。 寝て起きれば体重が減っていて、それだけ気力と意欲も減った。 その空を満たしたのは無力感と不安感だった。 ひとりで病院に行き、組織検査を受けた。 医師は彼女に乳ガンだといった。 大学病院に行かなければならないというので、 地下鉄の乗り換えがない東亜大病院に行った。 手術と坑癌治療が始まった。 恐ろしい肉体の苦痛は精神まで蝕んだ。 鬱病と対人忌避症になった。 外出せず在宅する生活が続いた。 そのうちに昨年の冬、突然大邱から釜山まで100km以上の道を歩き始めた。 嶺南大病院の屋上で高空籠城中だった長い友人、パク・ムンジンと会うためだった。

▲キム・ジンスク民主労総釜山本部指導委員[出処:パク・タソル記者]

「ガンというものは限りなく自尊感を押し倒すものでした。 1次坑癌が終わって10日後にシャワーをすると、 髪の毛がずっと抜けるのです。 二時間の間。 怖くて鳥肌が立ちました。 自分の意志で断髪をしたのではないので、恥ずかしくて、隠したくて。 坑癌の後に薬を服用するが、骨粗しょう症と関節痛のような副作用が現れます。 それで水のペットボトルも持てず、ぞうきんも絞れません。 絶えず副作用を体験しなければならなくても薬をやめられないので、 こうして暮らさなければいけないようで。 手術後しばらく風呂に入れないので一度浴場に行くことが願いでした。 そのうちに浴場に行くことになったのですが、 小さな子供が私のからだを見て、お母さんの後に隠れました。 こうしたからだを初めて見たのでしょう。 その時、私の体が他人と違うということを客観的に認められるようになったのです。 ツイッターもできませんでした。 「ガン」という言葉を見ることができないので。 人々が「ガンにかかったようだ」、「発ガン物質だ」、そんな話をしても傷付きますから。

その時、パク・ムンジンが高空籠城をしていて、電話の声を聞いただけで分かりました。 ただ静かに放っておいてはいけない。 私がしたことがなければわからないかもしれませんが、分かるのです。 あの程度ならどんな状態かということを。 マスコミには報道もちゃんとされずに。 ああして200日、300日、1年が過ぎればどうするか、苦しかったです。 それで高空籠城187日目の日、大邱から訳もなく歩き始めたのです。 初めは私がパク・ムンジンという友人を救いに行くと思っていましたが、 結果的には私が救援されました。 その時は携帯電話が古くて寒くなるとバッテリーが上がります。 無知なので勇敢というもので、地図もないのに出ていって山の中で迷って。 そのうちに韓進重工業支会長から電話がきて 「明日は私たちと共に行きましょう」と言いました。 二日目に労組からきたのですが、本当に心強かったです。 三日目は一日中雨が降ったのですが、 密陽相同駅に到着すると年配の人たちが果物と熱いお茶を沸かして待っていました。 四日目はクリスマスでしたが、80人ほどがきたそうです。 一週間そうして歩いて、パク・ムンジンと会って、 涙の対面式をしたでしょう。 それで気持ちがちょっと落ち着きました。 とにかく私が癒やされたような感じでした。 一か月ほど後に嶺南大医療院も合意をして、これからは私の戦いだけが残ったのです。」

定年4か月前にした韓進重工業の最後の解雇者だが、 彼女は自分が最後のはずがないということを知っている。 やはり三十数年前に解雇されて、世の中から忘れられた多くの女性労働者の1人だという事実も知っている。 18歳のときに会った家内工場の女工、大宇失業女工、 そして市内バスの車掌の時の自分まで。 多くの暴力と差別を味わった彼女らが相変らず現在を生きているという事実も忘れていない。 どうしてその時期には彼らにも、自分にも、何もしてやれなかったのか。 以前はそこまで面倒を見てやれなかった彼女らの人生が、大きな負債感になって胸に落ちる。 それで彼女はもう少し自分と彼女らが体験した暴力に耳を傾けて、 それらに対して語ろうとする。

「一番反省するのは、当時、女工に対する私の感情が嫌悪だったということです。 なぜあの子はそれを(性暴力を)強く拒否しないのだろうか。 なぜそのままやられてばかりいるのか。 それが女工の責任だと考えたのです。 その時は班長というやつらが10代の女性労働者たちの胸をもんで、 月給袋を渡す時もお尻を触って、 裁断室で男たちが性器を出して揺さぶったり。 そんなことがとても自然な日常の風景でした。 市内バスの車掌の時には配車主任が山の中の終点にある事務室に 彼女たちを連れて行って、それをして。 彼らは合意した性関係だと言うのでしょう。 しかし彼女たちはそんなことをすることで、少し仕事が減るのです。 私はそんな子たちを嫌悪しました。 軽べつしながら暮らしました。 それが構造の問題だということを知らなかった。 韓進重工業に入社してから、私にわい談、セクハラするおじさんに、 さらに強い冗談を言うことが利器というものだと考えていました。 それが私の世渡りで、生活の要領であるかのように。 しかしフェミニズムについての多くの話を聞いて恥ずかしくなりました。 いかに私が乱暴に生きてきたのか、 いかにそれらを無視して自らを強者と思い込んで暮らしたのか。 それに気付いたのです。」

彼女は相変らず自分の人生が鈍らないことを願う。 解雇されたまま長い間、世の中をさまよう幽霊のような労働者たちが忘れられることがないことを望む。 それで長い間外出せず在宅を終わらせたキム・ジンスク指導委員は、 もう一度復職闘争に立ち上がる。 人生の最大の仕事で課題、そして希望である元職復帰を実現すれば、 やっと本当に自分のため生活を送っても良さそうだと考える。 三十五年の歳月に逆らう戦い。 大韓造船公社船殻工事部船台組立課溶接1職、社番23733キム・ジンスクが、 また笑いながら最後まで共に、闘争に立ち上がった。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-09-11 00:51:48 / Last modified on 2020-09-11 00:51:49 Copyright: Default

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