韓国:故ムン騎手はなぜ命を絶ったのか | |||||||
Menu
おしらせ
・2024総会(報告) ・レイバーネットTV(4/24) ・あるくラジオ(4/20) ・川柳班(投句「風」) ・ブッククラブ(6/8) ・シネクラブ(6/15) ・ねりまの会(4/17) ・フィールドワーク(5/31) ・三多摩レイバー映画祭(6/2) ・レイバーネット動画 ●「太田昌国のコラム」第89回(2024/4/10) ●〔週刊 本の発見〕第342回(2024/4/18) ●「根津公子の都教委傍聴記」(2024/3/28) ●川柳「笑い茸」NO.152(2024/3/27) ●フランス発・グローバルニュース第8回(2024/4/20) ●「飛幡祐規 パリの窓から」89回(2023/12/31) ★カンパのお願い ■メディア系サイト 原子力資料情報室・たんぽぽ舎・岩上チャンネル(IWJ)・福島事故緊急会議・OurPlanet-TV・経産省前テントひろば・フクロウFoEチャンネル・田中龍作ジャーナル・UPLAN動画・NO HATE TV・なにぬねノンちゃんねる・市民メディア放送局・ニュース打破配信プロジェクト・デモクラシータイムス・The Interschool Journal・湯本雅典HP・アリの一言・デモリサTV・ボトムアップCH・共同テーブル・反貧困ネットワーク・JAL青空チャンネル・川島進ch・独立言論フォーラム・ポリタスTV・choose life project・一月万冊・ArcTimes・ちきゅう座・総がかり行動・市民連合
|
競馬産業の最底辺、故ムン・ジュンウォン騎手はなぜ命を絶ったのか[ルポ]馬事会昨年用役報告書「組織内差別、不均衡、不通、マッチョ存在」
ユン・ジヨン記者 2020.01.28 12:22
夫が死んで49日になる日。 オ・ウンジュ氏はまだ葬儀もできない夫の四十九日を上げた。 仏教で四十九日は、亡くなった人がこの世を去る日だ。 だがオ氏は夫がまだ自分のそばをぐるぐる回っているようだった。 夫の極楽往生を祈ることも、もうゆっくり休めという言葉も言えなかった。 20日以上光化門、世宗路公園霊柩車に横になっている夫を考えればそうだった。 一日も早く暖かいところに送りたいが、思うようにはいかなかった。 夫の四十九日を上げた日は、生きながら一番苦しい日の一つだった。 普段は涙を流しながらもさまざまな闘争日程を消化していると、 少しずつ悲しみが忘れられたりもした。 だがあの日、遺影の中の夫は普段と違っていた。 本当に夫が死んだという事実が現実として感じられた。 まだ信じたくなくて、つとめてその事実とぶつからないようにしたのに、 誰かがオ氏のそばで「死んだ」、信じなければならない」とささやいているようだった。 彼女は四十九日に多くの涙を流し続けた。 何も変わらなければ悲劇的な連鎖死亡を止めることができない夫の死を明らかにする時間がこれほど長くなるとは思わなかった。 旧正月連休前日の1月23日、座込場で会ったオ・ウンジュ氏は深いため息をついた。 少なくとも旧正月前には問題が解決できるはずだった。 遺族と労働組合、市民社会は旧正月前の解決を要求して、毎日を熾烈に生きた。 空の棺をかついで青瓦台までデモ行進して、5日間の五体投地もした。 1月13日から韓国馬事会と集中交渉もした。 だが馬事会の立場は変わらなかった。 故ムン・ジュンウォン騎手の真相調査の要求に対しては、 馬事会が主導する研究用役だけに固執し、 遺書で議論された責任者の処罰については警察の捜査の結果だけを繰り返して言った。 真相調査、責任者処罰、制度改善という遺族の要求は、全て受け入れられなかった。 [出処:キム・ハンジュ記者] 結局、オ・ウンジュ氏をはじめ遺族たちは光化門座込場で、 烈士の霊柩車の横で旧正月を過ごした。 旧正月だけは子供たちと共に過ごしたいという希望はかなわなかった。 オ氏は今すぐにでも電車の切符を買って、子供たちがいる所に行きたいといった。 一日にも何十回も襲う懐かしさに耐えるのは容易ではなかった。 それでもオ氏はまだ子供たちのそばに行くことができない。 時間が過ぎて、子供たちがお父さんの死を見る日がきた時、 その死がただ空しさだけで残ってはいけなかった。 何も解決しないまま、個人の死としてだけ記録されることはあってはならなかった。 「いつまで子供たちにお父さんの死を隠せるか、 悩んで結局、子供たちにも知らせました。 お父さんが馬に乗って事故がおきて天国に行ったと。 最初は病院に行って手術すれば良いのに、なぜ病院に連れていかなかったかと言います。 二番目の子はお父さんが本当に天にいると思って、 幼稚園バスからおりながら天を見て挨拶します。 『お父さん、来たよ』と。 お父さんがなぜ死んだのか、一生隠せないことということは分かります。 もう少し大きければ私が話さなくてもわかるでしょう。 その時、その死がどんな死だったのか、 お父さんが何をいおうとしたのか、 お父さんがどんな人なのか、知らなければならないでしょう。 それを知らせるためにも私は戦いを放棄できません。」 彼女は最近、一回も想像できなかった生活を送っている。 昨年11月29日、夫の死亡の消息を聞いた時も、 馬事会の不正と暴露した夫の遺書を見た時も、 自分が韓国馬事会を相手に闘争に立ち上がるなどとは考えることができなかった。 すでに釜山慶南競馬場だけで6人の騎手と馬匹管理士が自ら命を絶った状況だった。 夫は七人目の犠牲者だった。 それで当然夫を死に追いやった人たちが来るだろうと考えた。 頭を下げて遺族に謝罪することができた。 だが誰も弔問をこなかった。 謝罪もなかった。 夫の死もこれまでの死のように、忘れられそうだった。 ただくやしい死として残りそうだった。 何も変わらなければ悲劇的な連鎖死亡は止まらないようだった。 死の真相を明らかにして、責任者を処罰して、 制度を改善するのは馬事会を変えるための最低限の措置と考えた。 通算戦績3404回の騎手はなぜ命を絶ったか3404回。故ムン・ジュンウォン騎手が残した15年間の通算戦績記録だった。 彼が死亡した後、韓国馬事会釜山慶南競馬場は彼の名前を退役騎手リストに載せた。 彼は合計85人の退役騎手の中で二番目に多くの通算戦績を残した。 そして七番目に多くの1位記録を残した。 それでも彼はたびたび調教師に不当な指示を受けた。 オ・ウンジュ氏は「結婚前、調教師が夫に何等以内に入るなと不当な指示をした。 だが馬は速力調節が難しいので夫が入賞した」とし 「調教師はなぜ自分の指示に従わないかと怒り、 夫は悪かったと調教師の家の前まで行ったのに、門前払いされた」と説明した。 [出処:キム・ハンジュ記者] その時までは我慢して耐えることができた。 それでも努力すれば良い成績をおさめたりもしたから。 結婚直前の2007年、故ムン・ジュンウォン騎手は294回出場し、 各々29回、33回に1位と2位を記録した。 2011年は出場回数だけ302回で最も多く馬に乗った年だった。 2014年までも294回出場し、11回の優勝を記録した。 だが騎手としての人生は容易ではなかった。 彼が遺書で残したように、15年間、騎手として生きてきた体はぼろぼろだった。 騎手の労災率は他産業平均災害率の50倍を越える。 それも何回も馬から落ちる事故に遭い、鼻骨が折れ、股を縫い、 首椎間板ヘルニアに苦しんだ。 何よりも馬事会と調教師の不当なカプチル(パワハラ)は、もう我慢できなかった。 それで彼は2015年、やっと調教師の免許を取った。 だが彼は死亡する前まで、調教師としての生活を送ることができなかった。 免許を取得しても、馬事会が主管する「馬事貸付審査」を通過して馬房を受けられなければ無用の物だった。 馬事貸付審査委員は馬事会内部の5人、外部の2人で構成された。 評価は定量評価80点と定性評価20点でなされた。 定量評価は馬主から受けた管理委託意向書を受け、勤続期間を満たせば良かった。 問題は定性評価だった。 面接で事業計画や競馬産業の理解度、労務管理方案および性格などを評価する項目だった。 主観的な評価項目なので、親密さによって当落が決定した。 [出処:キム・ハンジュ記者] 故人は調教師免許を取っても5年間馬事貸付審査に落ちた。 彼は遺書で「免許を取って7年になった人にも与えない馬房を今免許を取ったばかりの人に先に出すような気分の悪いこともあるのに、 ただ偉い人たちと親密でなくてはいけないから...(中略)... 私が少し知っている馬事会の職員は、遠慮なく私に話す。 はやく馬房を受けたければ偉い先生とちょっとご飯も食べろと」と書いた。 労組によれば、調教師免許取得後にも馬事貸付審査を通過できない人員は17人。 そして彼らが馬事貸付に抜擢されずにいる期間は平均3年6月。 だが最近2年間、釜山競馬公園で馬事貸付審査を通過した人の平均抜擢期間は1年6月だった。 馬事会は調教師免許証を発給しても、 馬事貸付審査というもうひとつの不必要な審査をして騎手を管理した。 客観的でも公正でもない審査は、いつも公正ではない結果を作り出した。 『馬事会-馬主-調教師-騎手および馬匹管理士』
|