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「夫の死を明らかにするために、今日よりも明日の方が強くなる」

[インタビュー]ムン・ジュンウォン烈士夫人オ・ウンジュ氏

ユン・ジヨン記者 2020.01.25 18:00

韓国馬事会のムン・ジュンウォン烈士が死亡して58日目。 そして烈士の遺族がソウル市光化門の故人の霊柩車の横で闘争を始めて30日目をむかえた。 これまで遺族と労組、市民社会は、 韓国馬事会の謝罪と真相究明、責任者処罰、制度改善を要求してきた。 故人のくやしい死を明らかにして、残された遺族を慰労する普通の要求だった。 少なくとも旧正月前までには葬儀ができるようにしてくれという切実な気持ちが続いた。 5日間、果川競馬公園から青瓦台まで五体投地を行った。 だが結局、韓国馬事会と政府は旧正月前に葬儀をしたいという遺族の 切実な要求を受け入れなかった。

旧正月当日の1月25日。 遺族と市民社会は光化門の市民焼香所で合同祭事を行った。 そして惨憺たる心境で記者会見を行った。 彼らは「最後まで希望をはなさず、旧正月前日まで交渉に臨んだが、 結局旧正月前の解決は失敗に終わった」と明らかにした。 続いて「旧正月連休が終わるまで、 故ムン・ジュンウォン烈士を死に追いやった真相究明と責任者処罰、 再発防止のための制度改善交渉に誠実に臨め」とし、 「それでも馬事会の態度が前向きに変わらなければ、 もう馬事会との交渉は意味がない」と声を高めた。

結局、旧正月前に葬儀ができなかった遺族は、 光化門の焼香所烈士の霊柩車の横で再び闘争を続けていかなければならない。 旧正月連休前日の23日、 ムン・ジュンウォン烈士夫人のオ・ウンジュ氏と会って現在の心境を聞いた。

[出処:ユン・ジヨン記者]

「旧正月前まで葬儀ができないとは予想しなかった。 韓国馬事会は思ったより高い山だった。」

ソウルに上京して闘争し、1か月になろうとする。遺族の健康はどうですか。

私は釜山からきて、婚家の年寄りは済州道から上京するとソウルがとても寒い。 お年寄りは少し風邪にかかったようだ。 そんなこと以外は、私やお年寄りたちもよく粘っている。

旧正月前に葬儀をするためにずいぶん努力してきたが、結局葬儀ができなかった。これほど長く闘争が続くと予想したか。

全く予想できなかった。 馬事会は簡単ではないと思っていたが、思ったより高い山のようだ。 こうだとは思わなかった。 明日はうまくいく、あさってはうまくいく、という気持ちだったが、 なかなか容易ではない。 七人もの騎手と馬匹管理士が死んでも変わらない。 いくら労働者が死んでも利益を追求するだけで、 ずうずうしさを変える意志はないように見える。 特に馬事会は公企業だ。 七人の労働者が死んでいく問題について政府が動くべきなのに、政府も動かない。

昨年12月21日、キム・ナクスン馬事会長との面談を要求してレッツランパークソウル(韓国馬事会本社)を訪問した時に暴力を受けた。当時の状況はどうだったか。

当時はソウルに上京する前だった。 金海葬儀場にいて、釜山慶南競馬場本部長室に行って夫の死に抗議した。 釜山本部長は自分たちには権限がないので本社に行けといった。 それでキム・ナクスン馬事会長と会いに本社にきたのだった。 車から降りると、すでに本館前にものすごくたくさんの警察がいた。 本社に入り、なぜ夫が死んだのか聞かなければならず、謝罪を受けなければと考えた。 だが、本社に入ろうとする私を警察が制止し、 警察に押されて床に倒された。 足の下でも這っていくという切迫した気持ちが大きかった。 とてもくやしい気持ちで這って行こうとすると、下で足蹴りが始まった。 後ろの警察は私の頭を引っ張った。 起きあがると、前の警察が首をしめた。 周囲で手を出すなと大声を出しても対応できなかった。

その後も馬事会本社を訪問するたびに警察暴力があった。12月27日、ソウルに上京した時は、警察が故ムン・ジュンウォン騎手の霊柩車を牽引しようとした。1月21日には青瓦台近隣五体投地デモを防ぎ、衝突になった。警察に対する怒りも大きいようだ。

警察は市民を保護する義務がある。 すべての市民らが同じ考えだろう。 難しいこと、危険なことが起こる時、警察に行く。 ところが警察が弱い市民に暴行し、何の根拠もなく平和なデモ行進を止める行為を見て、 韓国の警察は誰のために存在しているのかという疑問を感じた。 権力者のためだけに存在する警察なのか。 いったいわれわれはこれから誰を信じて生きていけばいいのか。 子供たちを育てている立場として、 子供たちに警察はどんな人だと説明すればいいのか。 今回のことを体験して、警察に対して一番腹が立つ。

「『遅いと思うので先に寝ていろ』といった夫。隣に夫がいないことを確認したら死を防げなかったか。」

[出処:ユン・ジヨン記者]

昨年11月29日の明け方、故ムン・ジュンウォン騎手が死亡した。前日の夜10時まで、オ・ウンジュ氏と携帯メッセージをやりとりしたと理解している。当時に特別な事項はなかったか。

全くなかった。 前日にもいつものように日常生活をした。 幼稚園と学校から帰る子供たちを迎えに行き、子供たちと遊び場で遊んで帰ってきた。 家で普段のようにご飯を食べて。 その日、夫は約束があって行かなければならないと思っていた。 夫は「行ってくるよ、じゃあね」といって、私は「行ってらっしゃい」と見送った。 その時にやりとりしたメッセージも子供たちが何をしているのかといった 平凡な対話だった。 ただし今考えてみると、気になる話があった。 夫が死を準備して言ったことなのかは分からないが、 「遅くなると思うので先に寝ろ」といった。 私は本当に遅れると思って、何も考えずに寝た。 そうすると午前5時ぐらいに目が覚めると、夫がいなかった。 電話機を見ると同僚からたくさん電話が来ていた。 五時半ぐらいに電話を受けてタクシーに乗った。 子供たち2人だけを家に残しておいてあたふたと出てきた。

夫の死亡消息を聞いて信じられなかったようだ。

信じられず涙一滴も出てこなかった。 タクシーに乗って行くとき、同僚と電話をしながら 「今からでも遅くないので病院に連れて行ってくれ。 病院に行けば助かることがあるので、決めつけないようにしよう」と言った。 同僚としては私が無理を言っていると感じただろう。 本当にまず家にいろと言われた。 しかし私は本当に病院行けば助かると思った。 私がこの目で確認するまでは夫の死が信じられなかった。 宿舎に到着すると警察と119隊員など多くの人がいた。 入ろうとすると、絶対にあわせないと防いだ。 誰かが私を手伝って事務室に連れて行った。 医者が入ってきて、死亡推定時間は午前2時頃だといった。 その話を聞くと、私がなぜそんなにぐっすり寝たのだろうか、 途中で一度でも目を覚まして、夫がいないことを確認していれば 助からなかっただろうかという後悔が押し寄せた。

故人は遺書で馬事会の不正を暴露した。夫の遺書を見た時、とても驚いて怒ったようだ。

私が真っ先に警察の調査を受けた。 誰かが写真で撮った遺書を送ってきたし、 調査を受けに行く車の中で携帯電話で夫遺書を確認した。 夫の遺書を読んでとても泣いた。 そんなに苦しかったとは知らなかった。 そんな素振りを見せない人だったので、いつも大丈夫だ、大丈夫だと言うだけだった。 苦しくても死ぬ程ではないと思った。大変でも我慢すると思った。

「韓国馬事会が謝罪してもいいのに誰もこなかった。夫もくやしい死で忘れられそうだった。」

[出処:キム・ハンジュ記者]

結局遺族が故ムン・ジュンウォン騎手死亡真相究明と責任者処罰などを要求して闘争を始めた。闘争を決心した契機があるか。

初めて遺書を読んだ時は「戦わなければならない」とは考えなかった。 とても大きな衝撃を受けていて、何も考えなかった。 闘争はテレビで見るようなもので、関心を持って見たこともなかった。 警察の調査を受けて葬儀場に到着すると、 労組が委任状を持ってきて説明してくれた。 夫が組合員に加入した事実は知っていた。 労組が説明をしても、何の話なのか耳に入らなかった。

夫が死亡した後、5日間はとても気が動転して、水一杯飲むことができなかった。 ところがその渦中にも馬事会の関係者がきて、謝罪することはできた。 当然謝罪があると考えた。 だが誰もこなかった。 葬儀場に一人で座っていると、いったい馬事会という所はどんな所なのか、 夫をはじめ7人の労働者が死んだのに、まばたたきもしないのか、という気がした。 労働組合でもすぐに葬儀はできないと、 チュンウォンの死を明らかにしなければならないといった。 私も同じ考えだった。 葬儀すれば全てが忘れられられそうだった。 何も変わらないまま6人の死が忘れられられたように、 私の夫の死もただくやしい死で終わりそうな気がした。 その時から私も夫の死を明らかにするまでは葬儀を行えないと考えた。

釜山慶南競馬公園だけで14年間で7人の騎手と馬匹管理士が死亡した。故人が普段馬事会の不正に対して話したことはあるか。

騎手として15年働き、私に会う前から騎手生活をしていた。 結婚前に体験したことを夫に聞いたことがある。 調教師が夫に何等以内には入るなと不当な指示をしたと聞いた。 車はブレーキがあるので速力調節が可能だが、馬は調子によって違う。 500キロ以上の馬に引きずられて行くほかはない。 本当に良い馬なら順位に入ってしまう。 結局夫は順位の中に入り、調教師はなぜ自分の指示に従わないのかと夫に怒った。 夫は悪かったと言って、調教師の家の前まで行ったが、 何しにきたのかと門前払いされたと言った。 時々夫は「今日は3等ではいけないんだが」という話もしていた。 3等なら賞金が出てきて、私たちも暮らせるが、 そんなことで悩んでストレスを受けること自体が理解出来なかった。

[出処:キム・ハンジュ記者]

釜山慶南競馬場が故ムン・ジュンウォン騎手を退役騎手リストにあげた。全退役騎手85人のうち通算戦績が3404件で最も多い。騎手として夫の人生はどうだったか。

夫は2004年にデビューして15年間騎手として活動した。 結婚前後の1〜2年はよく馬に乗って良い成績をあげる実力ある騎手だった。 しかし年を取って体も悪くなり、確かに体力が落ちるのを感じた。 それでも一度も怠けず本当に熱心に、誠実に働いた。 その過程で夫はなんとか調教師免許証を取得したが、厩舎を配分されず騎手生活を続けた。 問題は2015年に調教師免許を取得した後、騎手でも騎乗回数が顕著に減り始めた。 調教師の免許証を持っている騎手はすぐ調教師になる人なのではないか。 調教師の立場としては、競争相手になるから夫にちゃんと馬に乗せなかった。 免許証取得後には騎手としての人生さえ、前と同じではなかった。

騎手の労災率は他産業の平均災害率の50倍を越えるという。故ムン・ジュンウォン騎手も遺書に「腰も首も調子が悪い」と書いた。故人は普段どんな事故を体験したか。

結婚前は鼻骨が折れ、私と会った後には落馬して股を縫った。 首椎間板ヘルニアをひどく病んで、首が後に曲がらない状態だった。 手術をすれば長い間馬に乗れないので、ディスクをかかえて生活した。 夫が落馬する場面は何度も見た。 馬から落ちた後、あまり悪くないようなら病院にも行かなかった。 ただ我慢していた。 騎手は危険な業務を遂行する職業なので、保険に加入するのも容易ではない。

「夫の死を明らかにするためには、大変だと思ってもやった。今日より明日の方が強くなる」

[出処:キム・ハンジュ記者]

韓国馬事会と政府が真相究明と責任者処罰、謝罪などの要求を拒否する理由は何だと思うか

全てを自分たちの責任と認めないようだ。 もし認めれば労働者7人の死が自分たちの責任であることを認めることになるから。 それで回避して責任を転嫁しようとする。 本当に問題を解決するつもりがあれば積極的に対話をするべきなのに、 ただ責任を回避しようとする。

1月18日に開かれた民主労総決意大会で「必ずあの腐りきった韓国馬事会を粉砕する」と話した。馬事会はどう変わらなければならないと考えるか。

7人の労働者が死亡した。 馬事会の内部構造的な問題を変えなければ、誰かがまた死を選択するだろう。 労働者の死を防ぐためには、馬事会内部制度改善が必要だ。 夫が遺書に実名で言及した責任者の処罰もない。 隠蔽される不正、そしてカプチル(パワハラ)などをなくさなければならない。

1月6日から毎日青瓦台に「空の棺デモ」をしている。文在寅政府に望む点は。

昨年11月31日から毎日、文在寅(ムン・ジェイン)大統領のSNSに DM(ダイレクト メッセージ)を送っている。 メッセージが伝わっているのかは分からないが、 大統領の耳にムン・ジュンウォン騎手についての話が一言でも入ればという思いだ。 青瓦台に行進するたびに、歩きながら、いつも心の底から 「お願いだから大統領が出ててきくれ」と祈る。 市庁から青瓦台へと五体投地をした時も、 青瓦台が見えると本当に切実な気持ちになる。 ここまで泣きながら歩いてきたのに、 頼むから国民のくやしい死を無視しないでくれと内心祈った。

大統領は、ムン・ジュンウォン個人の事だと考えず、 公企業で死んだ7人の労働者の問題だと思って欲しい。 大統領なら公企業で7人も命を絶った労働者の問題を解決すべきではないか。 馬事会会長を任命した人も文在寅大統領だ。 十分に責任がある地位だ。 ムン・ジュンウォン騎手が死んでほぼ60日が過ぎても一度もこないのは残念で腹立たしいが、来るまでもがいて叫ぶ。 馬事会を粉砕しなければならないと話した時、 私の目の前に民主労総の組合員が何千人もいた。 その瞬間とても感激して、千軍万馬を得た感じだった。 多くの人たちが共に声をあげれば、政府も動くだろうと考える。

これまでの闘争で自身にも多くの変化があったようだ。これからどう戦い抜くか。

初めは闘争をして体が大変だった。 とても荷が重いと内心考えたが、結果的にすべて耐えてやり遂げた。 初めは発言するのもとても恐ろしかった。 しかしそれもまたやり遂げた。 私は夫のためなら、ただ恐れるばかりでなく何かができるんだと感じた。 そして自らを信じられるようになった。 一番大きな力は子供たちだ。 今は会えないが、子供たちが私を切なく待っている。 この仕事をやり遂げられなければ、私は子供たちに会えない。 1月21日の五体投地の後で青瓦台で衝突があったその日、 本当にとても苦しかった。 しかし子供たちのことを考えて我慢して耐え、結局またやり遂げた。 だんだん意地になってくる。 初めはただ悲しんでいたが、そしてまだ悲しみが大きいが、 今は夫のくやしい死を解くという気持ちが一番大きい。 発言で「今日より明日の方が強くなる」と話した。 常に胸に抱いている言葉だ。 今この瞬間にも、今日より明日の方が強くなると信じている。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2020-02-09 16:49:08 / Last modified on 2020-02-09 16:49:10 Copyright: Default

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