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「一日でも復職したい」

[ルポ]道路で18年、公務員解雇労働者の名誉回復・元職復帰闘争の話

ヨンジョン(ルポ作家) 2019.11.26 10:36

労働三権を要求したという理由で、 労働組合を作って組合員で活動したという理由で、 時局宣言に参加したという理由で解雇された人々がいる。 短くても5年、長ければ18年、道路で名誉回復と元職復帰を要求して闘争している彼らは、 公務員労働組合の解雇労働者たちだ。
2002年に公務員労組が発足した後に公務員労組に加入した2969人に対して懲戒が行われた。 当時、530人の懲戒解雇者が発生し、そのうち136人はまだ復職できずにいる。 彼らの90%に当たる123人が金大中(キム・デジュン)・盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の時に解雇され、 彼らの解雇時期は公務員労組発足初期の2004〜2005年に集中している。
文在寅大統領は 2012年の大統領選挙候補だった時、公務員労組の総会に参加して 「参与政府の功過を受け継ぐ人として、 あの時にうまく終わらせられなかったことが残念で申し訳ない」とし、 公務員労組解雇労働者の復職と赦免復権約束をした。 だが、当選から2年半が経っても、約束は守られていない。
公務員労組解雇労働者の元職復帰に関する法が18代国会(2009年)と19代国会(2012年)で発議されたが、 議論もされずに国会任期満了で廃棄された。 現在、20代国会には2017年の 「労働組合関連解職公務員などの復職および名誉回復に関する特別法案」(共に民主党陳善美(チン・ソンミ)議員など24人発議)が発議されているが、 20代国会が終わろうとする現在も処理されずにいる。 11月14日には国会行前安全委員会法案審査小委員会が開かれたが、 該当法案の議論直前に自由韓国党の議員が会議場から離脱し、 定足数不足で議論されなかった。
現在、解雇労働者たちの平均年齢は58歳、 今すぐ復職しても一日でも勤務できる労働者は96人に過ぎない。 彼らの平均残余勤務期間は3〜4年に過ぎず、 2021年になれば解雇労働者たちの半分が定年になって、復職の機会を失う。
これまで5人の解雇労働者が復職できないまま亡くなった。 ガンで3人が死亡し、交通事故で1人が死亡した。 6月には定年をむかえたチョン・デゴン氏が自ら命を絶った。 15人の解雇労働者はガンと脳卒中などの重病で闘病中だ。 不当な解雇によるストレスと復職に対する絶望感のためだと解雇労働者たちは口をそろえて話す。
現在、公務員労組犠牲者原状回復闘争委員会(以下『回復闘』)は、 「最後の闘争」だという心情で闘争している。 彼らの切実な闘争が今年が暮れる前に小さな結実を結ぶことを希望する気持ちで 公務員労組解雇労働者たちの話を読者にしようと思う。
筆者

はやく復職させろと言いたかっただけです

11月7日の午前6時50分。 ソウル市三清洞の盧英敏(ノ・ヨンミン)大統領秘書室長公館の前。 「公務員労組解職者元職復帰」と書かれたオレンジ色のチョッキを着た人々が プラカードを持って一人デモをしている。 公務員労組解雇労働者たちだ。

▲11月8日午前、盧英敏秘書室長公館前で元職復職を要求するピケッティングをする公務員労組解雇労働者[出処:ヨンジョン]

彼らが到着するとすぐ、追いかけてきた警官たちはピケッティングが始まると一人デモ者の周辺で監視するように見守る。 この前、解雇労働者たちが車に乗って出て行く盧英敏秘書室長に 「ちょっと話をしましょう」と言ったため、 警察が鋭敏になっているという。 ある解雇労働者は盧英敏秘書室長の車両番号が「***1」で、 7時20分から7時30分の間に出て行くと話す。

7時25分、警官たちがいっせいに一人デモしている解雇労働者たちを取り巻く。 盧英敏秘書室長が乗った車が公館から出てくる。

「防ぐな! 防ぐなって! 押したではないか! 放っておけばいいのに、なぜ防ぐ?」

道路で一人デモをしていたイ・ギュサム氏が警官に激しく抗議をする。 秘書室長の車が解雇労働者たちの前を通り過ぎてから、 警官たちがギュサム氏から離れる。

「日常なんです。 私たちをはやく復職させろと言いたかっただけなんです。 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が解雇をしたのに、 その正統を受け継いだ文在寅(ムン・ジェイン)大統領関係者が問題を解決するべきです。 復職の約束もしたではありませんか。 気持ちが複雑で息苦しくてあせります。 はやく復職して、一日でも働きたい。一日でも復職したいです。」

2004年に原州市庁で6級公務員として会計業務をしていたが、 公務員労組の全面ストライキに参加して解雇されたギュサム氏は定年まで1年を残している。

秘書室長公館と総理公館の前での一人デモを終えた解雇労働者たちが 青瓦台前の座込場に移動すると、警察が統制する。 通ってはいけない、隠して行けという。

「どんな市民が通る時にそんな統制をしますか? 私はここにずっと立っているのか。」

チョッキを脱げば通れるという言葉まで出てきたので、 ギュサム氏が抗議する。

「おいおい、私の歳がいくつだと思ってるんだ、 恋愛にちょうど良い歳なのに」

前に行った解雇労働者の1人が歌を歌い、 後からきた彼らもふんふんと歌に付いて歌う。 公務員労組回復闘の一日が始まる。

横領した人がクビになったのを見たことがない

江陵、東海、原州、春川、太白からきた解雇労働者たちが 朝の食事をするために食堂に入る。 5千ウォンのコンナムルのクッパを売る解雇労働者には、あつらえ向きの食堂だ。 春川支庁公務員で村役場で総務係長をして、 2004年の公務員労組ストライキで解雇されたパク・テギュ氏が話す。

「ほとんどが解職されたが相当部分が復職して、 今残っている136人の解職者は法律でも救済を受けられなかった人々です。 とても悪質な人でしょう。 横領をしたやつらがクビになったことは見たことがない。 そんな人たちは何とかみんな生き残るのに、 集会に行ってぼやぼやしていて裁判を受けた私たちは悪質なんだ。」

「ぼやぼやしていてはいないぞ〜」

「火炎瓶は投げなかったじゃないか」

「あの時は火炎瓶は登場もしなかった」

「悪質は悪質だ。 国家を相手にあえて? 謀逆よ。逆賊。 われわれは三族が滅びないだけでも幸運だと考えなきゃ」

「機関の立場から見れば、頭に来る」

「返事もきちんとできず目もあわさなかったヤツが 突然頭に赤い鉢巻を巻いて、 あれこれするから頭に来るんだね」

テギュ氏が公務員として初めて働いた1980年、9級1号俸の基本給は8万9千ウォンだった。 手当てといえば辺境地で働く時の僻地手当てしかない時だった。 その給料で、一日三食を食べられる下宿屋に下宿費として8万ウォンを払ったという イ・ギュサム氏が 「それでも9千ウォンは残った」と苦々しく笑う。 テギュ氏の公務員の同期には、あまりに給料が安くて三養ラーメンのような 一般の会社に行く人も多かったという。

公務員組織に「言われれば言われたとおりにする」上司の命令に服従と軍事文化が広がった時期だった。 上から降りてきた要求に応じなかったり、「正しい話」をすれば他の部署に送られたり 懲戒された時期だった。 「こんなことまでするのか?」と思うことは一回や二回ではない時だった。

公務員社会の不正とシステムを知っている人が作った公務員労組

「その時、私が委員長に出ると言った時、 資格がないから出ないでくれと言ったのに、 私が出て... その時、私はよくやっていました。 クビにならなければ...」

「副市長になる。多分。」

「草創期に公務員労組をした人の特徴が何かと言えば、 公務員の内部で一番要職にあった人なんです。 公務員内部の不正と運営システムを最もよく知っていて、 それに対する問題意識を持っていた人。」

2011年、公務員労組委員長をして解雇されたキム・ジュンナム氏は、 公務員社会内部の状況をたくさん見たり、 本人が直接システムを作動させて、 問題意識を持っていた人の中に労働組合に参加した人が多いといった。

「私は行政課、ここにいる人も総務課行政課、 ここもその前に市庁でそうしていたし、 ここは監査室、企画室。 初期のメンバーでクビになった人のほとんどがそうです。 ソウルにいる人たちも、そんな人が多くて。」

「昔、この人たちは行政課にいて、 不正選挙に参加した人たちなんです。 以前の官権選挙で金を回して。 住民の指向を分析して。」

キム・ジュンナム氏は1980年頃に公務員生活を始めた人たちは、 そんなこと(官権選挙と不正腐敗)に「漬かっていた」人たちで、 86年に入ってきた自分のような人たちは、そうしたことの最後の頃だという。

「(全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領候補に対して)親ならマル、 そうでない人ははさみバツ、あやふやな人は三角。 そうしたことを作ったのです。 盧泰愚大統領選挙が87年でしょう? その時、黄色い封筒に5万ウォン以上受け取りました。 面に行って職員に渡したのですが、裏金ですよ。 その時の基本給が8万9千ウォンの末端に、5万ウォンなら大金でした」 (パク・テギュ)

公務員労組の設立の主軸になった人たちは、 20代後半から40代初めの市郡単位または行政組織の中で課長級を除き、 実際に働いていた当時に「次席」と呼ばれた7級相当の実務の核心だった。

「実際、自分の下の8級9級を動かして、係長課長とは中間で彼らの話を進めた人なんです。 その人たちは、上から間違いが見えて、 下の人たちの不満も聞ける、そんな位置だったんです。」 (キム・ジュンナム)

私たちは社会の毒きのこの役割を果たした歴史の罪人だな

個人的にはもうちょっと気楽に暮らして、 昇進を目前にした時に彼らが選択したことは、 個人の安全と危機と昇進ではなく、 公職社会の改革と不正腐敗の追放ができる労働組合だった。 IMF救済金融の後、就職難の中で国家職9級公務員の競争率が36.2対1になった年だった。

権力と持てる者によって揺さぶられてきた公職社会をまっすぐにたてて、 永い間、不正と腐敗で汚された公職社会を内部から革新することにより、 正しい国、常識と正義が正しく立つ国を作る主体になる。 (2002年3月23日公務員労組創立宣言文より)

▲11月14日午前、国会行政安全委員会法案審査小委員会を控えてピケッティングをしている公務員労組解雇労働者[出処:ヨンジョン]

「その時、目を閉じて適当にすればいい。 見ても見なかったふりをすれば老後は気楽でしょうに。 何がそんなに優秀なんだと。 やるのなら一人でやればいいのに、 隣の人までそそのかして。」

言葉はそうでも、 テギュ氏は労働組合活動を始めて、 ずいぶん新しい経験をしたと言う。

「単に暮らしのために公務員になって、労組ができて教育を受け、 歴史について学んだのですが、すごいショックでした。 私たちが持っていた既存の認識がみんなこわれたのです。 公務員が、公務員組織が、これまで社会の毒きのこの役割を果たした。 私たちは歴史の罪人だな。」

歴史も教科書で習ったのとは大いに違っていた。 労組活動をしながら、5・18光州民衆抗争についても知った。

「前は何も考えていませんでした。 ただ学生は本来そうするものだ。 こいつら今度はちょっと激しくデモをするな。 この程度だった。」

だが、テギュ氏は今、自分たちの活動を 「公職社会改革」でも「不正腐敗清算」などの内容だけで熱心に語るのは楽ではないといった。

「公務員でも判事でも、自分の権利が侵害されたとすれば権利闘争をするんです。 その権利闘争が地域社会や社会に役に立たず、何かの公益を阻害すれば、 当然支持されません。 私が属していた共同体の権利や社会に対することも考えてこそ、 自分のことを得られるのだから、 全体的な社会や市民の権利を見つけるしかない状況になります」。

テギュ氏は公務員労組活動が社会全体の助けになるという確信があったので 犠牲を甘受してもできたのであって、 自分のためだけならこれほど長い歳月、闘争できなかっただろうと話した。

政府は憲法第7条1項 「公務員は国民全体に対する奉仕者」条項などをあげて、 公務員の労働者性と労働三権を否定してきた。 しかし、公務員労組は同法第33条2項に基づいて、 公務員は労働者であり、したがって労働三権があるという宣言をする。

「(ストライキに参加したことを後悔しているのではないかという質問に) 何かの状況になれば、また同じでしょう。 私たちがした行動が誤って評価されていますが、 元職復帰することで正当化されると思います。 家族もそう思っていますし...」 (パク・テギュ)

言われたとおりに動く公務員にしたいのでしょう

食事を終えた解雇労働者たちが自由韓国党院内代表の 羅卿ウォン(ナ・ギョンウォン)議員地方区事務所前に ピケッティングをするために移動する。 現在、国会に発議されている解雇労働者たちの元職復帰特別法制定を要求するためだ。 春川で保健職公務員として働き、 2004年のストライキに参加して解雇されたチェ・ウォンジャ氏がツエをついて参加した。 足が痛いのに息子に助けられて、ここまできたという。

▲11月13日、国会の行政安全委員会法案審査小委員会の前日、元職復職法案の通過を要求する集会を開く公務員労組解雇労働者[出処:ヨンジョン]

「われわれが最初に労組を作るといったのではありません。 私たちが何も知らなかった時に政府があおって、 一般職公務員職場協議会を作ったのです。」

政府は1991年にILOに加入し、1996年にOECDに加入して、 公務員労組を認めると約束した。 その後、1998年に労使政委員会2.6社会協約で公務員の労働基本権保障のため第1段階として公務員職場協議会を認め、 第2段階として公務員労組を認めることにした。 政府は憲法に根拠もない「公務員職場協議会の設立・運営に関する法律」を作り、 1999年1月から公務員職場協議会制度を施行した。[1] だが、まさに公務員労働者が2002年3月に公務員労組を作ると、政府は強硬な弾圧で一貫した。

「職場協議会を作った後に、政府が公務員労組に関する法を作ると言うので、 われわれは一般勤労基準法に準じてやれと言いましたが、 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時に特別法を作りました。 結局は政府が主導権を持って、言われた通りに動く公務員を作ろうとしたのです。 それは本当に公務員労働者のためではないでしょう。」 (チェウォンジャ)

2004年、政府は公務員労働者の労働者性と労働三権(団結権・団体交渉権・団体行動権)を否定して、 公務員労働者を統制するために「公務員労組特別法」 (「公務員の労働組合設立および運営などに関する法律」)を一方的に制定しようとした。 これに対して公務員労組は2004年11月15日、3日間の全面ストライキで対応する。 その過程で拘束と解雇など、多くの犠牲者が発生したのだ。 当時のストライキで幹部34人が拘束され、約2600人が懲戒を受け、 約500人が解雇(最終136人解雇)された。

過怠金の賦課対象に死刑執行、文在寅大統領が解決しろ

この日の日程に参加したワン・ジュニョン氏(サンジュ支庁の公務員として働き、 2004年のストライキで解雇)は、 政府のこのような措置が 「過怠金の賦課対象に死刑執行をしたようなもの」とし、くやしいといった。

「私はその時に支部長でしたが、 ストライキの3日前にすでに手配され、逮捕令状が発行されていました。 (ストライキに入る)11月15日の朝9時、時報が鳴ると9時までに出勤しなかったので 無断欠勤だと懲戒議決を上げました。 公務員規定では、公務員が9時までに出勤しなければ遅刻で、 勤務時間中に出勤すれば遅参、勤務時間中に出勤しなければ欠勤です。 しかし行政自治部が9時までに出勤しなければ無断欠勤として懲戒議決して、 当日職位解除しろという文書を地方自治体に送ったのです。」

定年まで2年残すジュンニョン氏は、 これは政府の越権行為で上位法令違反であり、国家暴力だと話した。

「地方自治体はみんな血縁や学縁なので、うまくいかないかもしれないので 行政自治部から二三人を地方自治体に派遣して重懲戒をさせました。 減給や譴責程度はみんな甘受しましたが、 全面ストライキを主導した人たちはみんな罷免・解任側に政府の方針を完全に決めて 進めたのです。」 (チェウォンジャ)

行政自治部は「いわゆる全公務員労組が主導しているストライキ参加者などの不法集団行動に参加、 地方公務員法に違反した者に対し、 迅速で厳正な懲戒処理を履行」するという目的で 「ストライキ参加者など関連者懲戒処理手続き指針」を各地方自治体に送った。 行政自治部が作成したこの指針には、ストライキ6日目まで、各日付ごとに 迅速な懲戒処理のための細部的な内容が記載されている。

▲2004年、行政自治部が各自治体に送った罷業者懲戒手続き[出処:公務員労組の犠牲者原状回復闘争委員会]

チェウォンジャ氏は、公務員労組解雇問題は 中央政府が地方自治体の権限を越える過度な介入により発生した不当解雇なので、 当時の政府を継承したと話す文在寅大統領だけが 解決の鍵を持っているので、そのようにしなければならないと話した。

「苦しい時はやめようかとも考えました。 でも、やろた瞬間に私がしてきたことがすべて否定され、間違ったことになり、 それは容易ではありません。 やめることも事実容易ではなく、進むことも事実容易ではない、そんな気持ちなんです。 いつかはくやしさを明らかにして、間違ったことも明らかにできるでしょう。 大統領でも誰でも責任感ある人々が心を抱いて謝罪でもしてほしいです。 その当時は政権維持次元でするほかはなかったということでも... その後に犠牲者に対してどうするといった話でもしてほしい。 もちろん、そうしたからといって15年の歳月の苦痛が、 犠牲者とその家族が受けた傷がすべて治るのではありませんが、 多少の慰労にはなると思います。」 (ワン・ジュニョン)

[1] 〈脚注〉公務員労組犠牲者原状回復闘争委員会、〈国家暴力による全国公務員労働組合弾圧白書〉

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2019-12-06 16:10:54 / Last modified on 2019-12-06 16:10:56 Copyright: Default

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