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平和飛行機、済州江汀クロムビ アンニョン

[派遣美術-現場美術] 2011年「遊ぼう遊ぼう、江汀遊ぼう」平和飛行機

シン・ユア(文化連帯) 2017.09.12 11:02

2011年9月、希望バスが4回まで行われ、 2007年からは海軍基地反対、平和を叫ぶ済州道の江汀村への平和飛行機を構成し始めた。 9月3日、「遊ぼう遊ぼう、江汀遊ぼう」平和飛行機搭乗者のための連帯の場ができるという知らせに、 飛行機のチケットを予約し、絵の具をまとめてでかけた。

派遣美術チームは二日前に江汀村に到着した。 村には警察バスがずらっと並んでいて、村のあちこちに三々五々警察が群れになって歩き回っていた。 中徳三叉路からクロムビ岩側に行く道を探していった。 小さな櫓が見える。櫓を通りすぎて、狭く長い土の道を行けば、クロムビ岩が表れる。 平和活動家たちは、ここで歌い踊りながら暮らす。 そこには小さなテントもあって、文正鉉(ムン・ジョンヒョン)神父様と多くの信徒が祈祷をするミサの場所もある。

私たちは黒いクロムビ岩の上で作業を始めた。 クロムビ岩一つ一つ、丹念に調べて人の顔の形の岩を探し歩いた。 おもしろい形の岩が多かった。 ある岩は人の顔そのままで、ある岩は少し曲がったおばあさんの背中のように見え、 ある岩は隣のの友人の顔のようだった。 岩のあいまからすがすがしい湧き水が出てきたりもする。 クロムビ岩の探査を終えて、チョン・ジンギョンの指示で作業を始めた。

岩に韓紙をのせて岩のもようを写し取る作業だ。 日差しと風が良いからか、韓紙がかわいて型が取れた。 よく開いた型をまとめて持った。 まだあまり乾いていない紙はクロムビの上に覆せておいて村に戻った。 この時がクロムビと遊べる最終日だなんて想像もできなかった。 私たちが体で守るこのクロムビが、 私たちが毎日座って遠い海をながめ、 このままの自然を守ってくれと祈った まさにその場がなくなるとは本当に思えなかった。

宿舎に戻った派遣美術チームは大小に集まって、 昼に作ったクロムビの型で顔の形の造形物を作り始めた。 ダンボールを切って枠を作り、その上にクロムビの型で作った韓紙を貼って クロムビの形態がそのまま維持されるように、用心深く作業を進めた。 一方では、済州道で活動する友人らとイルカ、珊瑚などの造形物をダンボールで作り色をつけていたし、 イ・ユニョプと何人かは江汀小学校の前の倉庫で懸垂幕の作業をしていた。 いつからか、懸垂幕の絵は印刷で代替された。 懸垂幕のイメージを小さな絵画に、そしてそれをファイルに転換して、 また横断幕に印刷する方式だ。 だが今回の作業は、こうした楽な方式ではなく、すべて手作業で懸垂幕を描いた。 幅広の布を広げて下絵を描き、その上に彩色した。 クロムビも、そして珊瑚とイルカも描いた。 懸垂幕の絵に〈江汀を守ろう〉という字も書いた。 私たちの意志を表現したかった。 作業は夜遅くまで続き、終わらなかった作業は翌日に全てすることにした。

一日中作業して深夜に眠った。 眠りについてさほど経過せず、騒がしい声が聞こえ始めた。 9月2日午前5時。 警察約1000人は江汀村郊外周辺から江汀村に入るすべての道路を統制し、 クロムビにつながるすべての道を遮断した。 そして皆が眠った明け方に中徳三叉路に押しかけた。 恐らく平和飛行機の連帯が怖かったのだろう。 前日から雰囲気が普通ではなく、活動家たちは三叉路の食堂周辺で夜を明かしていたし、 クロムビに通じる道の近くに設置された櫓で夜を送っていた。 警察が押しかけて、数人の活動家らは鎖でからだを縛って抵抗した。 警察の暴圧にむしり取られるように一人二人と連行され始め、 クロムビに続く道は彼らのフェンスですべて塞がれてしまった。

目をさましたばかりの状態で、遠くから護送車に引きずられて行く活動家らを見守らなければならず、クロムビに続く出口を探さなければならなかった。 四方が警察とフェンスで塞がれた状況で、派遣美術チームは警察に神経質に質問した。 「あのクロムビ岩に私たちの物がある。 持って来ることができるように入れろ」。 しばらくやり取りした末に、警察は自分の車で案内して、 警察がついてきて物を持ち出すことにした。 その時がクロムビを見た最終日だった。

長い間、江汀住民と共にしたクロムビ岩、 ケクロムビダンとハルマンムル、ムルトジンゲ、これらすべてがショベルカーによって 穴をあけられ、こわされ、発破され、もうなくなってしまった。 その場には醜い軍艦がある。 明け方から落ち着かなかった村で、また私たちは作業に没頭した。 少なからぬ敗北感のため、鬱憤を胸に抱いて作業を続けなければならなかった。

平和飛行機の搭乗者が初めて集まる場所のポブァン入り江にまず到着した派遣美術チームと江汀守備隊は、 平和飛行機に乗って来た搭乗客を迎えるパフォーマンスを準備した。 そして前日の警察の暴力に 「われわれは戦いに来たのではなく、平和を享受しにきた」と叫んだ。 海を後にして空の上にのぼったクロムビ岩、イルカ、珊瑚などが海の中を泳いでいるようだった。 清明な秋空が少し悲しい日だった。

夜中に作った懸垂幕の絵はイベントが開かれる江汀川近くの運動場に移した。 警官たちが付きまとい、護衛をする。 運動場の片方に懸垂幕を設置してイベントに参加した。 歌も歌って風燈も飛ばし、鬱憤に充ちた演説もした。 平和は楽しく遊ぶことによって、私たちの力を楽しみによって見せることだった。 われわれは怒りではなく、楽しさで狂ったように遊んだ。 前日の怒りが爆発したかのように、 漢拏山の噴火口が爆発してふき上げるようにだ。

すべてのイベントが終わって宿舎に戻った派遣美術チームは、 李小仙オモニの訃報を聞いた。 天と地が崩れ落ちるような感じだった。 李小仙オモニは一緒に希望バスに乗って釜山に行きたがっていた。 それでぜひ一緒に行こうとあんなに約束したのに…。 イ・ユニョプとチョン・ジンギョンに、復活の図と遺影のイメージ作業を提案し、 われわれは急いでソウルに戻らなければならなかった。 葬儀を行い、李小仙オモニの最後の願いだった希望バスに乗って釜山影島に行ってきた。 お母さんの希望バスは、それから5回目の希望バスにつながり、 結局309日目に使用者側と合意したため希望バスはもう釜山には行かなかった。

平和飛行機は2回目、3回目と続き、 2014年からは江汀生命平和大行進という名前で済州道全体を歩いて行進する連帯が毎年続いている。 毎年続いているということは、まだ闘争は終わっていないということだ。 10年経ち、江汀村はますます戦争のための基地に変わって行っている。 最後まで笑いながら闘争することは可能だろうか。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-20 08:02:11 / Last modified on 2017-09-20 08:02:13 Copyright: Default

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