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光化門座込場との「熱い別れの挨拶」-座込場最終日の表情

「闘争は私たちの日常になったが、私たちの勝利は世の中のすべての日常を変えるでしょう」

チェ・ハンビョル ビーマイナー記者 2017.09.06 21:38

1842日、ただ一日ももれなく守られた障害等級制扶養義務制光化門座込場(以下、光化門座込場)の最終日。 全国障害者差別撤廃連帯がちょうど10歳の誕生日を迎える日だ。 これまでになく多くの人が座込場の最終日を共にした。 座込場ではいつよりも多彩な表情と会うことができた。 喜びと悲しみ、成就感と惜しみがひとつの空間でゆらゆらした。 この激動の一日、光化門座込場の表情を伝える。

[出処:ビーマイナー]

午前11:30 朴元淳ソウル市長訪問

朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が光化門座込場を訪れた。 遺影の前でしばらく黙祷した後、人々に向いあった。 光化門共同行動は「ソウル市の協力のおかげで5年まで来られた。感謝する」とし、手紙と花をプレゼントした。 パク市長は激励とともに闘争の必要性を強調した。 「どんなことでも闘争なくできるものではないと考えます。 私は市長だといっても、でも本当にそうだと思います。 学生の時に監獄でドイツ哲学者Jheringの「権利のための闘争」という本を読みました。 その本に「法の目的は平和だが、そこに至る過程は闘争だ」という文句がありました。 私も皆さんの仲間として一緒にします。」

▲光化門座込場最終日に訪問した朴元淳ソウル市長[出処:チョン・テギョン]

▲座込場の一方の壁になっていた構造物を解体している姿[出処:ビーマイナー]

午後12:00 座込場一方の角材構造物の解体開始

座込場の境界の役割をしていた構造物の解体が始まった。 すでに座込場の中にあった荷物はすべて片付けられた状態だ。 今年の初めに角材をつないで打ち込んだねじを一つ一つ解き始める。 角材を分離して、鉄製の構造物も取り除いた。 これまでホコリがうず高く積もっていた。 構造物の解体は40分程必要とした。

「これ作るのに一週間ここに出勤したが、撤去するのはあっという間だね。ハハ」 撤去作業をした人々が互いを見て笑う。 撤去がほとんど終わろうとする頃、全国障害者差別撤廃連帯のムン・エリン活動家が座込場に到着した。 構造物が撤去された場所、昨日までは明らかに壁だった所がなくなった場所をながめながら、 ムン氏は「ああ、本当に変だ」という言葉を繰り返すばかりだった。 「変だ、変です。 これがなくなって、もう本当の実感する... なんだか家から追い出されるような気持ちです」。 話している間に鼻の先が赤くなる。

「そのうちにきれいに写真を取らなければならない」とし、ソウル障差連のヤン・ユジン活動家がパーティー用のプラスチック風船をテーブルに上げた。 1、8、4、2の4つの数字と花のもよう、星のもようの風船だ。 1842日。 座込場の数字はもう1842で止まる。 しばらく風船を膨らませている人々の背中で、通りかかったある市民が 「これまでお疲れさまでした」と頭を下げて通り過ぎる。 また急いで歩きだす彼の背中に向かって活動家たちが力強く大声を上げる。 「ありがとうございます、ありがとうございます!」

セウォル号座込場でボランティア活動をしてきたというある市民が座込場を訪れた。 「お祝いします、これまでご苦労さまでした」。 彼はセウォル号座り込み序盤に、光化門座込場でずいぶん世話になったと話しながら笑った。 「2014年7月14日、両親たち五人がここで野宿断食座り込みを始めました。 しかしその時は何もなかったんです。 焼き付ける陽射しの下で、居続けると疲れるでしょう。 それで、ここにきて休んで行ったんです。 当時、署名を集める時に必要な物品、ビラ、ステッカー、黄色いリボン、そんなものは全てここに任せていました。 ゴミ分離回収もここでやって、かなり厚かましく。 ハハ。それでもいやな表情一つせず、いつも助けてくれました。 毎晩、文化祭もしたのに、4人が来ていてちょうどそうしましたよ。 しかしその時も、いつも全障連からたくさんきてくれて、 いつも一緒にしてくれた。 本当に感謝します。一番苦しい時に助けてくれたことに。」

[出処:ビーマイナー]

午後2:00 座込場での最後の写真

まだ残っている座込場の前にフォトゾーンが作られた。 狭い通路を塞がずにいちばんよく座込場が写る所を青テープで示した。 人々が一人二人と集まり始めた。 少なくとも一度は座込場を守った経験がある人々だ。 一人でも撮って、「死守単位」から来た人たちが皆同じように撮る。

忠北の沃天から来たイ・ヨンミ氏は昨年の夏、夜間死守の日の座込場の寒さを記憶する。 「その時はとてもたくさん雨が降ったのか、床から水が上がってくるほど湿っぽかったです。 地下で、そのうえ湿っぽいのでとても寒く、一緒に夜間死守した他の活動家と真夏に暖房器具を探してつけて寝ました。」

座込場を守るために地方から来るのは簡単なことではない。 行き来する交通費、食費などの財政的負担だけでなく、 移動時間によって一日、長ければ二日まで業務の空白ができるためだ。 しかし負担で倒れる単位はなかった。 座込場は全国の障害者と貧しい人々が「共に死守」する共同の空間だからだった。 イ氏は話した。 「私たちが皆同じように死守すべき空間だという考えがあって、 負担はあっても否定的な感情はありませんでした。 ソウルの団体の人たちが『地方から座込場を守りにきてご苦労さま』というが、 私たちはまたソウルの団体の方がたくさん座込場を守るので地方より苦労すると考えます」。

発達障害者三人と彼らのお母さん三人も座込場を記憶するために朝、蔚山から列車に乗ってきた。 二時をはるかに過ぎた時刻だったが、昼も食べずにまず座込場に立ち寄った。 「(障害等級制、扶養義務制、障害者収容施設)完全廃止ではないので残念だが、 それでも半分程度の勝利はあったからです。 子供たちを育てる時、ただ両親だから、兄弟だから、責任があると負担だけ負わせるのではなく、 社会がきちんと生きていけるように...ぜひちょっと(3大積弊が)なくなったらいいですね」。 座込場に対するメッセージに何を書こうかと悩む息子に彼は 「障害者収容施設をなくしてください、と書けばいい」と話す。

城東センターのチョン・ドンウン事務局長は 「昨日は眠れませんでした」と笑った。 座込場には城東センターの友人の遺影が多い。 故キム・ジュヨン氏は城東センターと長く共にした活動家であり、 故ソン・グキョン氏は施設から出た後に自立生活支援のために活動した所も城東センターであった。 故パク・チュニョク氏は城東センターで活動補助を終えた後も仲が良く、 人々が城東センター所属の活動家だと思うほどで、 故パク・ホング所長は城東センターの運営委員だった。 チョン局長は「親しい人々の遺影が増えるほど、座込場が切なかったんです。 今はこうして荷物をみな片付けて、何かがずいぶんなくなったことを見ると、 涙が出そうです」と言葉を濁した。 「ここには、あれこれ考えてみると何か、たくさんのことが含まれているようです。」

▲荷物がすべてなくなった座込場の中で障害と人権足の裏行動のキム・ジョンハ活動家(左)、光化門共同行動のパク・キョンソク共同代表(中)、人権政策研究所のムン・ギョンナン理事長(右)が話をしている。[出処:ビーマイナー]

午後3:30 連帯団体の座込場訪問

座込場にモチの配達がきた。 民主労総が送ってきた贈り物だ。 モチには「障害等級制、扶養義務制、障害者収容施設廃止! 人権の根をしっかり張った光化門座り込み5年、そして全障連10年! 本当にありがとうございます。 モチ米のように連帯して、必ず勝利!」という文句がついている。 座込場を訪れた人権財団サラムのパク・レグン(パンネグン)所長がモチを持ち上げて大笑いした。 「オウ、まだモチが暖かい。ほかほかの連帯の情を感じるよ!」

曹渓宗社会労働委員会、行動する性少数者連帯、私が作る福祉国家、正義党、労働党、緑色党など 連帯団体の人々の訪問が続いた。 祝いと尊敬の話がやりとりされる。 フォトゾーンでの写真も欠かさない。 座込場がにぎやかだ。

人々がフォトゾーン周辺におしかけて、込み合っている真っ最中、 全国障害者差別撤廃連帯のパク・キョンソク常任代表が空っぽの座込場の中に座っている。 たった今、座込場のフォトゾーンで取った写真をぼんやりと見て、チョッキのポケットに入れる。

▲セウォル号座込場を訪問して、焼香所で追慕する人々[出処:ビーマイナー]

▲セウォル号座込場を訪問して、焼香所で追慕する人[出処:ビーマイナー]

午後4:00 セウォル号座込場訪問

光化門座込場の人たちが、セウォル号座込場に最後の挨拶をしに行った。 地下で、地上で、車椅子のためのエレベーターの待ち行列が並んだ。 地面の上ではすがすがしい風が吹いていた。 人々が大きな息をついて休みながら列を作り、セウォル号座込場へと向かった。 人が多く、焼香所の前で3回にわけて追慕する時間を持った。

セウォル号署名台で活動しているパク・ソンヨン氏は 「嬉しい気持ちで、おめでとう」と伝えた。 「光化門駅を通るたびに地下座込場を見ながら『本当に立派に、熱心に、長い間しているな』と思いました。 完全な勝利ではないと言っても、ここまで国家の反応を引き出したのは、ひたすら皆さんの力でした。 セウォル号座込場と共にしてくれた皆さんの連帯が今後も続くと確信して、 また私たちも引続き連帯します」。 人々はセウォル号座込場の祝いに拍手と「忘れない」という激励で応えた。

▲文化祭に参加した人々[出処:ビーマイナー]

午後6:00 座込場に向けた熱い挨拶、文化祭の開始

ゆっくりと太陽が暮れ始めた。 ハジャ作業場学校のペステジャの公演で光化門座込場5周年/全障連10周年文化祭の幕が上がった。 光化門座込場共同代表団が舞台に上がって感謝の挨拶をする。

「1842日、われわれはしっかり手を取って駆け付けました。 光化門共同行動に連帯してくれる皆の力で掘りおこしたのです。 一日一日を満たした皆さんが誇らしい。 光化門座込場に連帯してくれた遺影1人1人を決して忘れないでしょう。 あなた方と共に見た夢を現実にしていきます。 悲しみにくじけず、怒りに崩れないのは手を握ってくれる人たちがいたからです。 光化門座込場を見て連帯してくれた皆さん、本当にありがとうございます。 5年間の闘争は私たちの日常になりましたが、 私たちの勝利は世の中のすべての日常を変えるでしょう。 座り込みは終わっても、戦いは終わりません。 5年の成果を踏み台として、さらに遠くに進むために手を握りましょう。 障害等級制、扶養義務者基準、障害者収容施設完全廃止のために共に闘争しましょう。」

感謝の挨拶に続いて、5年間の闘争の映像が出てくる。 あちこちで鼻をすする声が聞こえてくる。 光化門座込場の日常と熱かった闘争を企画して、引っ張ってきた執行委員たちが舞台に上がって行く。 くだくだしい言葉はない。 腰を大きくかがめて挨拶する彼らの頭の上に、人々の拍手と歓声があふれる。

今日デビューする「ミスター・オッケクム」の公演が始まった。 ミスター・オッケクムの実名はパク・キョンソクだ。 「オッケクムは『どうせこわれた夢(オッチャピ・ケジン・クム)』の縮語なんです。 音楽活動家としての私のアイデンティティを表現する名前なんです。 障害者なる前に一人でゆったりと暮らすことが夢でしたが、 障害者なってその夢がこわれてしまったという意味です。 夢がこわれた後は『皆で同じようにゆったり暮らす』ことが夢になり、 その夢をかなえたければ闘争しなければなりません」。 デビューの舞台に非常に緊張しているのか、ミスター・オッケクムの声が震える。 続く告白、「座込場が終わるので、私の体の一部が離れ行くようです」。

告白を聞いている人々はすでに知っている。 それがパク代表だけの告白ではないというのに。 「ほっとする一方、名残惜しい」と笑ってみせたが、 この巨大な闘争の歴史をきちんと整理するのは感情的にあまりにも難しく、複雑だ。 ひとりが「ああ、本当に変な気分だ」と涙を浮かべ、隣の人が肩を抱く。 それも涙を溜めたままだ。 三時間があっという間にすぎる文化祭の間中、 人々は喜んで広場の地面に座っている。 光化門座込場との離別をできるだけ熱く、できるだけ真心を込めたいという気持ちのせいだ。 そして人々はやはり知っている。 座り込みは終わっても、戦いは続くということを。 ひとつの空間に定住する闘争が終わったので、 これからは来た方向に動く闘争が始まることということを。[記事提携=ビーマイナー]

▲光化門共同行動執行委員らが舞台の上で挨拶している姿[出処:ビーマイナー]

▲パク・キョンソク代表(中)と1人の執行委員(右)が一緒に歌っている姿[出処:ビーマイナー]

付記
この記事はビーマイナー記事です。チャムセサンは提携社記事の同時掲載を許容します。

原文(ビーマイナー/チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2017-09-10 02:55:18 / Last modified on 2017-09-10 02:55:20 Copyright: Default

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