本文の先頭へ
LNJ Logo 韓国:帝国の慰安婦議論、怒るべきことには怒らなければならない
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 1468922878073St...
Status: published
View


帝国の慰安婦議論、怒るべきことには怒らなければならない

[寄稿]「帝国の慰安婦議論、みんな腹を立てている」への反論

リュハン・スジン(エイジェンダー) 2016.07.19 13:11

[編集者 注]チャムセサンが共に作る週刊ワーカーズの18号イシューは、帝国の慰安婦に関する論争を扱った。 この論争に飛び込んだのは多少遅れた感があるが、これまでの論争を振り返り、さらに発展的かつ健康な議論の土台になるように願った。 この文に対する反論をある読者が寄稿の形で送ってきた。 この寄稿文を転載する。 また、この問題と関連して(まとまった形の)どんな文章も歓迎する。

訳転載者 注: 「帝国の慰安婦の議論、どちらも怒っている」、「帝国の慰安婦、誤読と正読」の2本の翻訳記事は読者からの要請により非公開にしてあります。

チャムセサンの「帝国の慰安婦議論、みんな腹を立てている」を読んで、本当に惨憺たる心情だった。 該当記事は全体的に全く進歩的でも民衆的でもない見方をしているだけでなく、 被害生存者を無視する間違った和解を主張しているためだ。 進歩言論というメディアでこんな内容を説明すれば、人間の尊厳のために戦っている多くの人々は、とても寂しい。 何かしなければならないと思い、寄稿を申請した。 すでにさまざまな人から多くの批判が出ているが、私が一番重要だと考えるいくつかの項目だけでも人々に知らせたい。

最初にこの記事は「帝国の慰安婦」が「学術書」だから学術的、論理的な批判以外には怒ったり非難してはならず、訴訟は言うまでもなく不当だという立場を取っている。 「帝国の慰安婦」をまともな学術書だと見るのも難しいが(先行研究についての検討も、史料の信頼性と意義についての検証もなく『〜したと見なければならない』、『〜したようだ』という根拠のない推測で綴られた本を、学者が書いたという理由だけで学術書と呼ぶのは学問の権威と学者の権威の混同だ)。 それを別としても、私はこれが「学術」を事実上、聖域化するものだと考える。 表現の自由は無限ではなく、特に他人に暴力を加える自由は含まれない。 学者が本に書いた表現だとしても同じだ。

「帝国の慰安婦」は、日本の軍人が慰安婦に与えた温情や、両者の間に好意が存在した若干のケースを大きく誇張して、 慰安婦被害者が軍人の「慰安者」であり、ここにある種のやりがいを感じたと主張し、 その上これを「被害の記憶」と対比される「和解の記憶」だと言うが、 当事者間の関係や被害者の経験と感情について恣意的な叙事をまき散らしたり、 加害者と被害者が仲が良かったようだから加害者を断罪して処罰することを止めて和解しろと言うのは、 2次加害の中でも一番深刻かつ暴力的な類型に該当する。 まして、被害者が自分の経験はそうでなかったと抗議する状況なら、さらにそうだ。 このような加害を中断させ、これによる被害について補償を受けることは、 完全に正当な被害者の権利であり、これについての公憤と非難もまた(人格冒涜など、もうひとつの言語暴力でないとすれば)当然で必要な反応だ。

二番目に、この記事は朴裕河(パク・ユハ)批判者を怒って理性を失った人とひとまとめにして蔑んでいる上に、この過程で事実に反する叙述をしている。 記事では事実上、無批判に引用されているキム・ギュハンの発言は「正常な知的接近が難しい状態」、「怒って興奮している」、「陣営の論理から抜け出して、さらに冷徹に接近すべきだがにそうではない」、 「慰安婦問題について討論する条件も備わっていない状態」、「具体的な解決方式についての議論と研究そのものが不可能で、そもそも討論にならないことが最大の問題」など、 あらゆる種類の言葉で議論の参加者を非難する。 一言で「みんな怒っているだけで反論できなくなっている」ということだ。 記事も「朴裕河教授が提起した問題に対する具体的な研究と反論はまだない」とし、こうした論評に同調している。

これは全く事実ではない。 この本に対して少し検索しただけでも多くの書評と論文、単行本を見つけることができ、 その中にはあまり激昂していない礼儀正しい批判も多い。 歴史学者、法学者、女性学者が専攻者の立場から書いた学問的な反論も多い。 ところがキム・ギュハンはこれらの批判の内容に反論するのではなく、すべての意見がすべて非理性的な陣営の論理だと一蹴するだけだ。 こうしたものこそ「正常な知的接近」と言えない不誠実で不当な論評だ。 議論で片方を罵倒する前に、まず最低限の事実関係を確認することが報道の基本だと考える。

事実、そもそも怒りと理性を対立させることからして穏当ではない。 社会問題に対する最も鋭い批判は多くの場合、その問題に対する怒りから出発する。 怒りがそのまま非理性を意味するのなら 「批判の本質的なパトスは怒りであり、その本質的な任務は弾劾だ」と公然と宣言したマルクスは、世界で一番非理性的な人だろう。 朴裕河やキム・ギュハンの文を読んでみれば、彼らこそ 「怒って興奮して」いるのではないかと思うが、たとえ朴裕河を批判する人の方が怒っているからとしても、それが彼らが話す内容が間違っていると主張する根拠にはならない。

三つ目、この記事はアジア女性平和基金の受給者を排除するという批判を繰り返しながら、「排除」とやらが具体的にどのような意味なのかは明らかにしていない。 そして挺対協が「基金を受けた被害者のおばあさんたちとも挺対協は共に活動している」という立場を出したが、 インタビューを不当に編集してまるで挺対協が答を回避したかのように暗示している。 挺対協がいったい何をどうしたというのか? 記事だけを読めばまず「挺対協は悪い」という結論があって、これを裏付けるために実体が曖昧な「排除」という言葉を引っ張ってきたとしか思えない。

その上、この記事は挺対協が基金の拒否を選んだ脈絡は削除して、漠然とした反日感情のために基金を拒否しているかのように報道しているが、 これは本当にとても偏向的な態度だ。 アジア平和基金は犯罪に対する法的賠償という意味を拒否し、歴史的な反省の代わりに単純に良いことのために共に募金しようといった恩恵授与的な接近を基底とする基金なので、 慰安婦の犯罪性を歴史的に明確にすることにより、このようなことが繰り返されることのを防ぐためには、これを拒否するのが当然だ。 基金の受け取りを拒否したために「日本の良心的な市民との関係まで遮断」されたという言葉は、事実上、日本の右傾化を被害当事者と運動のせいにする被害者誘発論に近い。

労働組合でも未払い賃金や労災治療費、被害補償などを要求する時、使用者側が「労使協力基金」などの責任を回避する曖昧な名前の基金に変えようとするケースはしばしばある。 この記事の論旨によれば、これを受け取るかどうかに対して、労組は立場を出さないか、基金を受け取らなければならない。 基金を受け取るなと宣伝すれば、基金を受け取ることを望む組合員の排除になるということだ。 使用者側が強硬な姿勢で出れば「会社内の穏健派との関係まで遮断された」と言って執行部を批判しなければならないだろう。

幸い、私はチャムセサンが労働者の闘争に対してそのような形で報道したことを一度も見たことがない。 当然のことだ。 これは事実上、使用者側の言う通りに従えという言葉と同じだから。 戦時強姦被害者の闘争だからといって、異なる立場を取る理由はないと考える。 被害者は加害者の責任を明確にして、援助ではなく賠償を受ける権利があり、 社会正義と再発防止のためにもそれが必要だ。 被害者がこのような権利を主張することで加害者が被害者を嫌うとすれば、 これは反省を拒否する加害者の誤りであって被害者の誤りではない。

四つ目、この記事は大衆を愚昧で「運動勢力」に振り回される存在と描写している。 「大衆は慰安婦被害者を抵抗の主体として教育されてきたし、そうではない主体、他の層位の被害者があらわれることに当惑を感じるため否定する」、 「挺対協をはじめとする運動勢力は、運動のために民族主義の枠組みでその認識を利用してきた」という朴裕河の発言を無批判に引用することにより、 記事は事実上、大衆が怒っているのは何かよくわかっていないからで、 挺対協と「運動勢力」はこうした愚昧な大衆を利用しているというメッセージを支持する。 民衆をこのように愚かで無力な存在として扱い、なぜ、そしてどのような方法で民衆の側に立つというのか?

学者の言葉には無条件に友好的に耳をすませて聞かなければならないが、 大衆の世論はきちんと聞きもせずに無視してもいいという考えはよくある通念だが、 とても間違った通念だ。 学者は本を読み、講義を聞き、研究して、文を書く方法の訓練を受けた人々であるだけで、 何か普通の人間を超越しており、いつも合理的な言葉を言うだけの人ではない。 いつも政治的に正しいことを言うということではまったくない。 学者も完全に間違った、社会的に非難されて当然の話をすることがあり、 特に自分の特権が関わる場合、しばしばこのようにする。

反対に、このような教育や訓練を受けていない人々だとしても、何も考えずに注入された通りに行動するだけではない。 学者ではない人々も自分の良識と知性で自ら判断し、それが常に正しくはないとしても、 たいていの人々の判断には合理的な部分が少しはある。 だから多くの人々が、特に当事者が声をあわせて怒っていることには、それなりの合理的な核心があるはずだ。 私はこのような信頼がなければ、さらに民主的な社会に対する指向は期待できないと考える。 以下に書くつもりだが「帝国の慰安婦」に対する怒りも、無知な大衆の誤解ではなく、正しくないことに対する正当な反応であり、 相手を誤解して核心を外しているのはむしろ今、大衆を見下して無視する人々だ。

五つ目、この記事は「帝国の慰安婦」についての争点を完全に誤って要約している。 記事は「帝国の慰安婦」が画一的な認識を破ったから問題になったのであり、 国際主義と普遍主義を指向しているという点で挺対協の立場と大きく違わないらしい。 しかし「帝国の慰安婦」はほとんどが既存の慰安婦研究者の著書を再引用して編集したに過ぎないので、それほど新しい認識を投げかけているとはいえない。 この本が問題になったのは、当事者の多様な生活の脈絡を表現するために形成された作業の一部を取捨選択し、 慰安婦の全体の姿であるかのように誇張し、これを利用して「基金を受け入れて日本の法的責任をこれ以上問うな」という主張を裏付けようとしているからだ。

民族だけの問題ではなく、性別、階級の問題を見るべきだという認識は、すでに女性主義陣営からたくさん出てきた話で、 挺対協でも十余年前から同じ観点を主張してきた。 しかしこれを民族問題に対する提起を虚像だと卑下するために使うとすれば、これは二重三重に弱者であった被害生存者の位置から恣意的にある層位を削り取ることで、 被害生存者の経験の脈絡を傷つけ、被害の完全な告発を不可能する抑圧だ。 戦争前後に性売買女性が受けた抑圧と慰安婦の連続性を認識しなければならないというのも新しい主張ではなく、無理なく認められる話だ。 しかし、これを性売買と戦時強姦の差を曇らせるために使えば、被害生存者の核心的な被害経験を勝手に他のものに交換し、被害生存者に社会的烙印を押し付ける2次加害だ。 受動的で画一的な被害者の姿を抜け出して主体としての被害生存者を照明するために、 加害者と被害者の関係が完全に敵対としてのみ綴られていなかったとか、 被害者も受動的に苦しめられるだけではなく自らの方式で状況に対応したという事実を表わすことも、既存の慰安婦研究でたくさん試みられた作業であり、貴重で意味のある接近だ。 しかしこの事実を加害者の責任回避が続く状況で和解を勧める根拠として使えば、 これは被害生存者を二倍、三倍に傷付ける経験と言語の簒奪だ。 「帝国の慰安婦」に怒っている人たちは、何よりもこの事実を正確に知っているのだ。

「帝国の慰安婦」が支持する政治的立場を正確に要約すれば、 「日本の加害責任を問うことを止めて和解しよう」だ。 正義に対する被害者の要求を沈黙させることで形成される和解は、 不条理に対する屈従に過ぎない。 これは国際主義でもなく、普遍主義でもない。 戦うのを止めようという主張すべてが平和主義ではないように(もしそれならストライキが起きるたびに「労使関係先進化」を叫ぶ朝鮮日報と総編こそが最高の平和主義者だろう)、 民族や国家で対立するのは止めようという主張がすべて普遍主義と国際主義なのではない。 国際主義は(民族的抑圧をはじめ)普遍的な人間の尊厳を害するすべての暴力と不正に対抗する世界的な連帯を示す名前だ。 女性嫌悪を批判する女性に「性的な敵対を助長するな」と訓戒することが両性平等主義ではなく男性中心主義であるのと同じように、 帝国主義戦争犯罪を批判する弱小民族の民衆に「葛藤を生じさせるな」と説教することは国際主義ではなく強大国中心主義だ。

歴史的な暴力の被害生存者を袋叩きにして、その上で和解を説明するのを見ても怒らないとすれば、それは共感能力が麻痺しているということだ。 怒るべきことには怒らなければならない。 世の中を変えるすべての抵抗はそこから始まる。

付記
リュハン・スジン:マルクス主義とフェミニズムを支持するエイジェンダーだ。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2016-07-19 19:07:58 / Last modified on 2016-07-19 19:08:53 Copyright: Default

関連記事キーワード



世界のニュース | 韓国のニュース | 上の階層へ
このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について