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故郷の大邱にできた「全泰壹公園」

「人間らしく暮らそうと思う声を集めなければ」

キム・ギュヒョン記者 2015.11.23 11:37

「兄が大邱で生まれ、韓国動乱(朝鮮戦争)の時期に避難するために出て行ってから12年目にまた大邱に戻りました。 1年7か月ほど大邱で過ごした時期がおそらく兄の22歳の人生で一番幸せだった時期だったと思います。 六人家族が少しの間だけでもみんないっしょに暮らし、兄が唯一学校に通って勉強できた時期でした」。

大学生の友人が1人でもいたら良いと言った全泰壹(チョン・テイル)。 1948年8月26日に大邱で生まれた彼は翌年、韓国動乱(朝鮮戦争)で釜山に避難する。 戦争が終わって全泰壹と家族はソウルに上京し、 全泰壹は当時、国民学校の3年生として南大門国民学校に入学した。 しかしいくらも経たないうちに4.19革命が起きて学校には軍隊が駐屯し、彼は授業を聞くことができなかった。

裁断師だった彼の父は学生服を納品する工場を建てるほどまでに家を立て直したが、 1960年、一緒に働いていた同僚の詐欺で暮らしていた家からも追い出された。 ソウル市梨泰院の射撃場に近い納屋の仮住所で過ごした全泰壹は15歳の年にまた大邱に戻る。

11月21日午後1時、大邱市中区の南山路チョノク高等公民学校(現ミョンドク小学校)の前にはチョン・テサム氏と市民約30人が集まった。 全泰壹が通っていた学校だ。 「美しい青年・全泰壹45周年大邱市民文化祭推進委員会」は、 全泰壹が大邱で過ごした足跡を現地調査した。

▲大邱市中区南山洞のある路地、全泰壹と彼の家族が暮らしていた所。[出処:ニュースミン]

全泰壹と家族が1年7か月暮らしていた所は、大邱市中区南山路のある路地だった。 チョノク高等公民学校から見れば、白菜畑と染色工場の向こう側に彼の家があった。 青い門の家主の家は歳月の痕跡をそのまま持っていた。

チョン・テサム氏は 「ここに六人家族が寝ると一杯だった。 中二階を作り、その上にすべての荷物をあげてミシン2台を置いた。 当時、救護物資として入ってきた服が大きくて韓国人に合わないので、 それを持ってきて解いてお父さんがまた裁った。 お母さんと私が解くとお父さんが裁って、兄がミシンをかけた」と話した。

裁った服はお母さんが市場に持ち出して売ったという。 当時、全泰壹はチョノク高等公民学校の夜間組に通って勉強をした。 全泰壹は班長を担当するほど勉強熱心だったという。 ソウル言葉を使う彼は、友人からも人気が高かった。

▲六人家族が一緒に暮らしていた所で回想するチョン・テサム氏。[出処:ニュースミン]

テサム氏は「その時、兄が片方の壁に英単語を貼って覚えながらミシンをしていたことを思い出す。 兄は常に勉強しなければならないという気持ちが深かったようだ。 『テサム、今勉強しなければもう機会がない』と言って、 お父さんが裁ったジャンパー7枚を持って私と一緒にソウルに行く汽車に乗った」と話した。

全泰壹は弟のテサム氏を連れて勉強するためにソウルに上京した。 ソウルに上京する途中、チンピラに持っていた金をすべて奪われ、パゴダ公園の近くでリンゴ箱を買って移動式の家を作った。

テサム氏は「昼にはパゴダ公園のクルマ保管所に荷物を預け、夜になると箱の家に入ってロウソクをつけて勉強した。 兄は私に九九を覚えさせ、ハングルを教えた。 兄はその時も英語の勉強をしていた」とし 「一か月ほど新聞売り、ガム売りをしながらソウルで暮らしていたが、私が病気になった。 兄が私を助けるためにまた大邱に戻ってきた」と話した。

また大邱に戻った時、すでに家族はばらばらに散っていた。 お母さんは金を稼ぐためにソウルに行き、お父さんと家族は南区テミョン洞のテミョン市場近くの納屋にゴザを敷いて仮住まいをしていた。 お父さんは大邱駅の裏手でずっと裁断の仕事をしていた。

全泰壹は 「お母さんを見つけたらまた戻る」という言葉を残して、一番下のスンドクを背負ってソウルに上京し、 平和市場で金を稼ぎ始めた。 大邱には彼のお父さんとテサム、スノクだけが残った。

テサム氏は「おそらく大邱で暮らしていた時が兄の運命を決定した時間だったようだ。 すぐに上京して1970年11月13日に命を終えるまで、ソウルで暮らした」とし 「私は兄を探しに行きたかった。 しかしお父さんに連絡がくるまで待てと言って怒られた。 結局、私も一人で汽車に乗ってソウルに行った」と話した。

[出処:ニュースミン]

大邱市中区南山洞50番地、全泰壹が生まれたところには現在「正しく生きよう」という大きな碑石が立っている。 70年代、窓一つない工場で糸埃を吸いながら働いていた青年たちの一日の賃金は、コーヒー一杯の値段の50ウォンだった。 うとうとせずに夜中に働くために注射を打った。 あってもなくても良い勤労基準法を燃やし、劣悪な労働環境を世の中に知らせた彼に似合わない碑石だ。

この日、推進委員会はここに「全泰壹公園」という名前を付けた。 オ・ギュソプ推進委員長(大邱参与連帯代表)は 「城門を挟んで城門の中の人と外の人の人生はあまりにも違っていた。 全泰壹は城門の外の労働兄弟と共に、城門の中に入るのではなく、城門の壁を崩そうとした」とし 「大邱で全泰壹の名前を記憶することは意識の変化だ。 城壁を崩す多くの人々が手を握る契機になるだろう」と話した。

チョン・テサム氏は「多くの人々の関心と実践があったから今日、兄の公園ができたのだろう」とし 「今望むことは過去の歴史をもっと大切に記憶して復元することができるように、 多くの関心を持ってほしいと望む。 今の庶民、労働者、非正規職、学生たちが人間らしく生きようとする声がここに集まればうれしい」と話した。

[出処:ニュースミン]

付記
キム・ギュヒョン記者はニュースミンの記者です。この記事はニュースミンにも掲載されます。チャムセサンは筆者が直接書いた文に限り同時掲載を許容します。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2015-11-23 22:58:58 / Last modified on 2015-12-02 06:05:16 Copyright: Default

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