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西北青年団から光化門広場を守る理由

[人権オルム]セウォル号テント以上に人間に対する感覚

ミリュ(人権運動サランバン) 2015.01.30 11:34

先日、ドイツの反イスラム団体「ペギーダ」の代表がヒットラーに扮装した写真をインターネットに載せたことで非難が殺到し、辞任したことがあった。 もちろん扮装だけが問題ではなかった。 彼の外国人嫌悪と人種差別的な発言がすべて問題になった。 それはヒットラーの扮装そのものが「有り得ないこと」だという共感の基礎の上で可能なことだった。 昨年秋、「西北青年団」を再建するという人々が登場した。 殴打、拷問、殺人を行った西北青年団を再建するという発想を「有り得ないこと」として扱うことができない韓国社会の姿が苦々しい。 これまで西北青年団は1月中に光化門広場のセウォル号テントを撤去すると言った。 今、私たちが守るべきは、セウォル号テント以上だ。

「嫌悪」の向こう側の嫌悪勢力

セウォル号惨事後にあらわれたさまざまな現象は、韓国社会において「嫌悪」を重要な社会問題にした。 多くの人々がセウォル号家族のハンストと同じように「暴食闘争」を記憶する。 惨事の初期からイルベで行われた多くの嫌悪の競演と「オンマ部隊奉仕団」という名で特別法に反対したプラカード・デモなど、多様な集団が登場した。 眉をひそめさせるいくつかの発言や表現を中心に「嫌悪」を理解すれば、彼らはすべて異なる集団だろう。 差別禁止法に性的指向などの差別禁止事由を明示するなと主張した集団が、自分たちは同性愛嫌悪勢力ではないと主張するように、 西北青年団やオンマ部隊奉仕団も自分たちが嫌悪勢力であることを認めるはずがない。

しかし、それぞれの集団が自任する役割は、かなり緊密な協力関係を作り出している。 遺族に対する直接的な嫌悪表現は一定の時間が経った後、巧みに「補償を望む横車」という流言飛語になった。 特別法制定に反対する署名運動が行われ、黄色いリボンとテントなどのセウォル号惨事を忘れずに行動しようとする動きへの実力行使が続いた。 署名運動や集会のような大衆行動が必要になったという点を除けば、労働者がストライキをする時、国家機構とマスコミが行う協業と大して変わらない。 だが国家機構やマスコミのような権力を保有しない彼らは、「合法的」だったり「礼儀正しい」方式ではなく、嫌悪を通じて大衆行動を作り出す。

[出処:チャムセサン資料写真]

嫌悪による政治勢力化

彼らが実際に行っていることより、過剰評価されるという面もある。 西北青年団を再建しようとする努力にもかかわらず、解放後に西北青年団が政局で持った権力に達するのは不可能だろう。 「反共」を行う国家権力が体系的に地位を占めている時期と今は違う。 昨年末の憲法裁判所の統合進歩党強制解散決定でも確認されるように、「合法的」な国家機構の作動で十分に「反共」が達成されている。 西北青年団は「セウォル号犠牲者の魂を奸悪な亡国的扇動に利用している従北売国勢力の欺瞞術」に行政府と司法当局が本来の任務を全うできていないと主張するが、 行政府と司法当局は西北青年団の助力を求めて権力を分け合う気はないだろう。

しかし彼らが十分な力を持っていないという点は、むしろ私たちが彼らをさらに真剣に扱うべき理由になる。 足りない力を補ったり包む彼らの戦略が「嫌悪」だからだ。 嫌悪現象は韓国だけでなく、日本、ヨーロッパなど、世界で問題になっている。 嫌悪そのものが新しい現象なのではない。 韓国社会でも特定集団を特定して卑下し、社会的に忌避すべき対象にする現象はいつもあった。 「従北」嫌悪は最近のことかもしれないが、「アカ」嫌悪は韓国社会の以前からの習俗だ。 問題は嫌悪そのものではなく、嫌悪による政治勢力化だ。 最近、嫌悪勢力はソウル市人権憲章のような制度を無力化させるところまで進んだ。 性少数者嫌悪と宗教の力-信仰と結びついた物質的基盤-が出会ったためだ。 既存の嫌悪が保守勢力の執権体制に収斂されたことと較べれば、最近の嫌悪は保守勢力の執権体制を越えてあふれている。 彼らは私たちに馴染んだ政治とは違う姿の政治をしている。

嫌悪勢力が押し倒すもの

嫌悪勢力は、セウォル号家族が、移住労働者が、性少数者が、「従北左派」が社会的に途方もない権力を行使しているかのように非難する。 そしてそうした権力に堂々と対抗し、軽蔑と非難を敢行することを通じて自分たちの力を確認する。 さらに暴力的であるほど正当だと認められるのが嫌悪の政治だ。 嫌悪は特定の集団に対する偏見の問題や、表現、または倫理的な態度の問題と理解されることもある。 しかし嫌悪そのものが嫌悪勢力の目的ではない。 彼らは脆弱な集団を攻撃の対象とする方式を通じ、彼らの勢力を伸ばしている。 嫌悪勢力は、自分たちの目的を達成するために人類が積み重ねてきた「人間」に対する感覚を破壊している。

嫌悪は誰かの尊厳を破壊する行為だ。 嫌悪を受けた時に経験する人格の毀損は、瞬間的な侮蔑感や恐怖では終わらない。 嫌悪は特定のアイデンティティを問題にするため、人格の統合性そのものを不可能にする。 これは攻撃される個人の問題に終わらない。 権利を主張した瞬間、降り注ぐ嫌悪を味わい、攻撃される集団は萎縮するようになる。 権利を主張することがさらに難しくなる。 一方では、嫌悪勢力の攻撃を通じ、特定の集団の社会構成員としての権利を否定する表現そのものが勢力を伸ばすようになる。 嫌悪を問題にしつつ「私は***ではないが」という条件を付けるような傾向も生まれる。 政治共同体を作っていくことが不可能になる。 嫌悪は嫌悪される集団の問題に終わらない。

光化門広場で一緒に守るべきこと

彼らの嫌悪を通じ、われわれは彼らが望む世の中の姿を察することができる。 世の中のすべての人々は異性愛者でなければならず、適齢期に結婚をして、家族を作り、子供を生み、世の中を維持しなければならない。 もし子供が死んでも、あまり長く悲しんでいてはならず、適当に気持ちを整理して日常に復帰しなければならない。 それぞれが自分に与えられた場で一生懸命働きながら、社会に寄与し、自分で解決できない問題を社会的に解決しようと言ってはならない。 社会主義思想のようなものは無意味か、害悪的なので関心を持ってもいけない。 自分が生まれた国から出ようとしてもならず、他の国に憧れてもいけない。

聞き慣れない話ではない。 保守勢力が追求するものとあまり違わない。 だから嫌悪勢力に対する批判は、嫌悪への批判以上でなければならない。 しかしこんな世の中を望まない人々が嫌悪そのものに共に対抗しなければならない理由も明らかだ。 人間に対する感覚が崩壊したホロコーストのような経験は、歴史的な現実だったためだ。 西北青年団の歴史を「有り得ないこと」として十分に歴史化することができなかった韓国社会では、さらに緊張する必要もある。 光化門広場で私たちが共に守るべきものは、セウォル号テント以上のものだ。 われわれは人間に対する感覚を守らなければならない。 それでこそ人が人間らしく暮らせる世の中へと一歩踏み出すことができる。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2015-01-31 10:13:37 / Last modified on 2015-01-31 10:13:38 Copyright: Default

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