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韓国:サムスンが捨てたもう一つの家族(4) -イ・ヒジン | ||||||
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暮していくことがストレスです[連続企画]サムスンが捨てたもう一つの家族(4) -イ・ヒジン
ヒジョン(執筆労働者) 2010.11.02 11:13
イ・ヒジン氏に会うため釜山に行った。ヒジン氏は今年の7月、サムスン電子に 労災を申請した。彼女は白い膚の目がきれいな人だった。27歳だという。表か ら見れば、病気の人のようではない。 しかし病に罹って5年になる。ヒジン氏の右目は殆ど視力がない。右手と足は少 し無理をしてもしびれてマヒ症状を見せる。彼女の病気は中枢神経界疾患の 『多発性硬化症』だ。聞き慣れない病名だ。症状も人によって異なり、発病の 原因も正確には明らかになっていない珍しい病だ。彼女も自身の病について知 るだけで2年かかった。 症状は右手のしびれから始まった。手にマヒが来て、足にも異常が出た。4年間 のヒジン氏の診療記録を調べた。症状が始まった2006年から多発性硬化症と判 定される2008年6月まで、37回病院を訪ねた。その時から今まで1か月に1、2回 は病院に行く。多くの病院訪問記録を見て、平坦でない彼女の日常を推測する。 彼女の日常は常に不安だ。気を付けなければならないことが多い。疲労が溜っ てもならず、ストレスを受けてもいけない。再発の危険のためだ。歩行、感覚、 視力などに障害が来る多発性硬化症は、常に再発しかねない病気だ。再発が繰 り返されるほど、治療の可能性は減る。身体の一部分が一生障害を持ったまま 生きていかなければならないという。
[出処:パノルリム(http://cafe.daum.net/samsunglabor)]] ヒジン氏が右目の視力を失ったのも、一回の再発のためだ。サムスンを退社し て新しい職場で働いてから一か月で再発した。ストレスのためだった。 「世の中にストレスを受けない仕事がありますか。」 ヒジン氏はため息をつく。風邪や疲労のようなありふれている病気にも気をつ けなければならない。病気で免疫が弱まった彼女のからだは、軽い病気でしば しば苦しむ。しかし疲れれば再発の危険が高まる。 「就職をすれば、体調が悪いからと言って休むこともできないでしょう。途中 で勝手にやめることもできないということでしょう。」 疲労とストレスに耐え抜けず、職場生活ができない。病気の再発以後、ヒジン 氏は何の稼ぎも出来ない。それでも就職の準備のために、彼女はコンピュータ を学び、求職広告を見る。働き盛りの年齢のヒジン氏の心はあせるばかりだ。 麻痺した手で千枚のLCDパネルをヒジン氏は高等学校3年の時にサムスン電子に入社した。彼女はLCDパネルの色 とパターンを検査する業務をした。検査のために一日に何百枚ものパネルを直 接運んだ。入社4年目、右手にマヒがきた。 「それで退社したのですか?」 「いいえ。退社はその翌年です。もっと我慢して働こうと考えました。」 彼女は手首を後ろに反らして腕でパネルを持つようすをしてみせる。こうして ずっと仕事をしたという。それと共に「その時病暇を出さなかったのが一番悔 やまれます」という。 病暇を申請できない理由があった。仕事はいつも多かった。12時間交代勤務、 この生活を1年6か月もした。こうした状況で自身が席を外せば被害を受けるの は同僚だった。嫌われそうだった。 また成果給と昇進を決める人事考課も気になった。サムスンの人事考課は相対 評価だった。必ず決まった人数にマイナス点(D以下)をつけなければならなかっ た。だから病暇を使ったり退社前の人にマイナス点をつけるのが一般的な慣例 であった。 ヒジン氏は病暇を使えなかった。からだの状態はさらに悪くなり、足にも無理 がきはじめた。ところがパネルの運搬は、本来機械の作業だという。入社初期 はコンベヤーベルトでパネルを移動していた設備が、直接人がパネルを持って 運ぶ構造に変えた。 「早くたくさん(物量を)処理するために変わったのです。」 コンベヤーベルトでLCDパネルを運ぶと、前のラインで問題が起きると後の工程 にパネルがこず、作業ができなかった。しかし人が直接パネルを運べば問題の 製品だけを抜いて運び、作業ができるので時間を節約できた。 職員も初めは設備の変更を喜んだ。生産物量が増えれば成果給も上がるからだ。 だが15インチから19インチのLCDを、多ければ一日に1000枚ほども運ばなければ ならなかった。手首や首、肩の痛みを訴える人が増えた。 短い時間に、多くの物量を、正確に検査業務自体も容易ではなかった。LCDパネル1枚当たり20数種類の色がきちん と出るかどうかを確認する仕事だった。検査は一枚当り20秒以内で終わらさな ければならなかった。一時間に約80枚、一日に千枚近いパネルを検査した。こ のすべての検査は肉眼でなされた。 「画面はどれ程の距離で見ていましたか。」 「これ程です。」 ヒジン氏が目から6寸ほどのところにてのひらをたてる。 「そんなに近くですか?一日中そうして画面を見ていたのですか?」 小さな塵でも微妙な色の差も見過ごせず、LCDの画面にできるだけ顔を近付けて 作業をしなければならなかった。それでも人がすることだと、不良を見のがす ミスをする時もあった。 もし一つでも見逃して不良が出れば、その日は仕事の後に残って再検査をしな ければならなかった。再検査だけでも時間がかかった。ミスは人事考課に反映 され、理由書も提出しなければならなかった。だから『短い時間』に『多くの 物量』を『正確に』検査するために、いつも緊張していなければならなかった。 多発性硬化症は免疫疾患の一つだと言われる。ストレスと過労は免疫機能を低 下させる代表的な原因だ。それだけではない。LCDパネルを通電したまま検査を するので一日中、電磁波に露された。また鉛のような有害物質の使用が疑われ る高温テストと作業工程が、彼女の作業場と同じ空間にあった。彼女の病気は これら全てを疑わせる。 最低限の補償症状が悪化したヒジン氏は、2007年2月にサムスン電子を退社する。私が尋ねた。 「それでもサムスンに通っている時はサムスンが好きだったでしょう?」 サムスンは多くの若者が羨む職場だ。まさにヒジン氏は真顔になる。 「仕事が多くてつらくて……。」
[出処:パノルリム(http://cafe.daum.net/samsunglabor)]] しかしサムスンへの反感は、彼女とパノルリム(半導体労働者たちの健康と人権) が会う契機になった。釜山市内を歩いている時、ヒジン氏は道の片方でサムス ンへの署名運動をしているのを見た。サムスン不買運動だと思って自分も署名 しようとそちらに近付いた。それはサムスン半導体白血病問題を知らせるパノ ルリム宣伝戦だった。そうしてパノルリムと出会い、2010年7月ヒジン氏は労災 を申請する。 「医師がストレスを受けないようにしろと言うので努力しなければいけないの ですが、ところが受けてしまいます。生きていくことがストレスです。」 ヒジン氏の言葉はまるでため息のようだ。症状を抑制するための二日に一回の 注射も、27という年齢で小遣を受け取る境遇も、テレビに出てくるサムスン広 告もストレスだ。 事情を知らない友人に『まだ働いていないの』と聞かれる時、一番気に障ると いう彼女だ。19歳、初めて職場に入った彼女が夢見た8年後は今の姿ではなかっ ただろう。前に労災申請をした13人の被害者にサムスンと勤労福祉公団がそう だったように、イ・ヒジン氏に労災不承認と判定してストレスを与えないこと を望む。労災認定は27の彼女にあたえる最低限の補償だろう。 翻訳/文責:安田(ゆ)
Created byStaff. Created on 2010-11-02 22:07:57 / Last modified on 2010-11-02 22:07:58 Copyright: Default このフォルダのファイル一覧 | 上の階層へ | ||||||