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相変らず青春の「籠達先生」チョ・フェジュ、定年退任

[インタビュー]チョ・フェジュ全教組解職教師「定年退任がどうした。明日も今日のように暮らす」

ユン・ジヨン記者 2014.08.28 22:07

全教組解職教師チョ・フェジュ先生が定年退任をする。 全教組設立以後、解職教師が定年退任をむかえるのはチョ・フェジュ先生が初めてだ。 インタビューを要請すると 「ただ静かに過ごそうとしていたのに、なぜインタビューまでするか」と手で遮る。 インタビュー直前まで「私はとても恥ずかしがり屋」とし、心苦しいといった。 だがそれもしばらく、彼の25年の闘争人生を確かめるだけでも、 話は果てし無く続き、二時間のインタビューはとても短かった。

チョ・フェジュ先生は3回の解職と2回の復職を経験し、 結局、解職状態で定年退任をむかえることになった。 解職期間が長かったが、彼は休まず街に出ていった。 二十九、初めて教鞭を取った青年教師は、30余年の歳月をずっと青春で送った。 教壇にいる時は学生たちと、路上にいる時は大衆と、いつも疎通した。 大きな闘争の現場には常に彼がいた。 その上、周辺の人々は彼に「籠達(座り込みの達人)」というニックネームまで付けた。

3回の解職、2回の復職...「現場で退任したかった」
全教組発足初期から25年間、教育、社会、労働運動に献身

定年退任を前にした心境を尋ねると 「現場で退任したかったのに…」として空しそうなそぶりを隠せなかった。 解職状態で定年退任をむかえるようになったのがとても残念なようだった。 定年退任と共に、全教組組合員の資格が消えるのも空しい。 発足初期から25年を共に駆け抜けた全国教職員労働組合だった。 「さびしいね。発足初期からしてきたのに。 名誉組合員だと言っても、権利も義務もないから組合員ではないのと同じだ」。 そう言いながらも、雰囲気を反転させるためにすぐ冗談を投げる。 「ただの形式的な手続きなのに、まるで運動圏から退任するみたいだ。 そうでもないんだけど。」

チョ・フェジュ先生は1979年、29の年齢でソウルのサグン小学校で初めて教鞭を取った。 厳しい時期だったが、学生時代はずっと特別な政治的活動はしたことがなかった。 前に出るのもなじまず、集会がある時、時々一人で行った。 民主化運動の流れを後で見守っていた彼が、 社会運動に第一歩を踏み出した時点は、教師になった直後だった。

「家が野党なので私にも野党気質があった。 しかし組織もなく、そのうち私一人で時々デモに行く程度だった。 ところで全教協ができて教師も動き始め、私も参加するようになった。 地域教師協議会の事務局長をしたりもしたね。 全教協の時も政権の弾圧はあったが、決定的に懲戒できるようなことはなかった。 不法団体ではなかったから。 そのうち89年全教組が発足した。 その時から政府が関係機関対策会議を作り、総体的な弾圧を始めた。 保護者も動員し、脱退覚書を書くように強要したりもしたし。 私は全教組活動の中で本格的に労働者階級意識というものを知り始めたんだね」

全教組発足直後の89年7月、チョ・フェジュ先生は罷免された。 罷免の理由を聞くと「全教組に加入したという理由さ。 私は平凡な組合員だったよ」と答える。 本当に単に「平凡な組合員」だけだったのかと再度聞くと、 「何、全教組結成の時に漢陽大で先鋒隊をしたけれど」と笑う。 事実、彼が罷免された理由の一つは「全教組脱退覚書」を書かないことだった。 当時、全国で1500人の教師が解職され、そのうちチョ・フェジュ先生のように罷免された小学校教師は150人にのぼる。

「罷免されて5年後の1994年に復職した。 金泳三(キム・ヨンサム)政府の方針で、罷免、解任された教師が赦免復権された。 しかし名誉な復職ではなかった。 政府が相変らず全教組を認めず、全教組を脱退するといった意志表明をすれば復職ができたんだ。 その時、全教組の代議員大会で議論が多かった。 私はこんな形の復職には反対する立場だったが、結果として復職方針に決定された。 政府としては、解職教師の復職と全教組活動の弱化という2つの成果を上げた形だ。 これに反発して、当時復職を拒否した教師も20〜30人程度いた」

チョ・フェジュ先生は94年の復職以後、また学校現場に戻り全教組活動を続けた。 そして1999年、全教組は結成10年目に合法労組の地位を持つようになる。 当時、チョ・フェジュ先生は全教組ソウル支部長選挙に立候補し、 3巴戦の選挙で54.5%という圧倒的な支持率で初代全教組ソウル支部長に当選した。 しかし支部長に当選したその年、彼は拘束されて2年後、また学校現場を離れることになった。

[出処:チャムセサン資料写真]

「2000年の全教組合法化後、初代ソウル支部長に選出された。 その時、初めて団体協約を締結した。 だが金大中(キム・デジュン)政府が団体協約を履行しない。 それで団体協約を履行しろと何度も闘争をした。 金大中がノーベル平和賞を受けた日、全教組教師400〜500人がいわゆる青瓦台進撃闘争をした。 教師たちが世宗文化会館の前で一気に奇襲的に駆け出して、青瓦台総理公館まで、かなり深く入った。 全員警察に連行されたが、金大中が賞を受ける日だというので、そのまま全員解放した。 それでその翌日、また政府総合庁舎に進撃闘争をした。 その時は拘束された。出てから当時の全教組首席副委員長が拘束された。

拘束中に全教組委員長選挙があった。 その時、拘束状態で獄中から立候補をした。 李秀浩(イ・スホ)選挙本部と共に競選をした。 選挙の一週間前に保釈で釈放された。 選挙は2%差で負けた。 51%対49%程度だった。 釈放された後もずっと裁判を受け、最終的には懲役2年と執行猶予2年を宣告された。 2002年に自動で免職になった形だ。 最高裁の最終判決を前に発電労組がストライキに突入した。 全教組が発電労組のストライキにどう連帯するのかを議論して、代議員大会で早退闘争を決定した。 政府は全教組を萎縮させるために弾圧し、その時に私は職位解除された。 解職を控えていたのだが、職位解除までされて、さらにはやく現場から追い出された形だ」

政府との復職闘争を繰り広げた末に、チョ・フェジュ先生は2004年、また現場に復職した。 だがその年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)弾劾反対時局宣言の記者会見に参加して、また公務員法などの違反で自動免職になった。 2006年、大法院で最終的に免職の判決を受けた後は、もう教壇に立つことができなかった。 定年退任まで8年間を「解職教師」として生きてきたわけだ。 解職の話で雰囲気が重くなると、チョ・フェジュ先生はまた冗談を投げかける。 「私が民主党の人に会えば、それとなくひとこと言うんだ。 盧武鉉弾劾に反対して解任されたのに、任期が終る時にも赦免復権もさせてくれなかったと」。

相変らず20代の青年教師、「大衆と共に戦えば失敗した闘争ではない」

チョ・フェジュ先生は今も青春のように暮らす。 彼は激しい闘争の現場の中に一様に存在する。 ふと彼の20代、情熱にあふれていた生まれたばかりのヒヨコの教師の時が気になった。 「初めて教壇に立った時、情熱と使命感があふれていたのではないか」と言うと、 「そんことはあまりなかった」という無関心な回答が戻ってきた。 その上「私は6年だけ担当した。6年が一番良い」と言う。 理由を聞くと、一度、1年を担当したことがあるが、休み時間に昼休みでは子供たちがとても集まってきて、うまくやれなかったという。 そう言いながらも、いつも思い出す教え子がいる。 一緒に歳月を過ごし、40を超えた中年の教え子らとは時々会ったりもする。

[出処:チャムセサン資料写真]

「初めて赴任した時は、情熱とか決心はあまりなかった。 しかしやってるうちに使命感が生まれるんだね。 子供たちが可愛かった。 89年、初めて解職された時、うちのクラスの学級委員をしていた子がとても泣いた。 出て行くなと。 復職した後は、私の活動を積極的に支持してくれる学生や保護者も会った。 今でもその子たちと時々連絡をする。

1981年だったか。 初めての赴任地だったソグン小学校で2年の担任を一度担当したことがあった。 しかし学生の中に情緒不安定患者がいた。 どんな先生もこの子を担当しようとしない。 結局私が引き受けた。 あいつは情緒不安のようなものがあって、授業時間でも休み時間でも学校中を歩き回った。 クラスの友達のノートもみんな破った。 とても授業ができなかった。 それで、あいつの手をつかんで授業をした。 私が翌年、学校を離れたが、1年ほど後で連絡が切れた。 後で聞くと、結局学校に通えず、施設のようなところに行ったという。

事実、各クラスごとに1、2人ずつ情緒不安な学生たちがいた。 その子たちを捨てたり、知らんふりをしてはいけないのだが、多くの担任が大変なので、ただ問題児だと放置するようだ。 問題児扱いをすると、さらに問題児になる。 学校がそんな学生もうまく生活できるようにシステムを備えるべきなのに、そんな部分がとても不足している」

教師としての使命感も生まれ、学生ともなじむ頃、チョ・フェジュ先生は教壇を離れた。 その後の解職者としての人生はあまり容易ではなかった。 経済的な困難も大きかった。 彼は「前から貧乏だったし、いつも貧乏だった」と話した。 10年間、地下の借家住いをする時、水害で首まで水につかり、 幼い子供たちを窓の外に逃がした記憶はまだひやっとする。 その過程で青年時代の彼の写真は全て流失した。 その後は、アルバムに写真も貼らないという。 つらい生活と活動で逃げたいこともあっただろうが、彼は「一度もそう考えたことはない」と話した。

「闘争が終わった後に、そんな考える暇もなく、もうひとつの闘争が続いた。 激しく闘争する途中にそんなに考えることもできず、してもいけない。 特に、引き受けた役割があるのだから、責任感も大きかった。 私も人だから熱心に戦ったが、成果がなければつらいこともある。 だが失敗する戦いでも、大衆が現場で共にするということだけでも一つの大きな成果だよ。 今まで勝利した闘争がどれくらいあったか。 表面では敗北したかもしれないが、さらに多くの大衆と会って、連帯したのは失敗ではない」

路上の教師チョ・フェジュ、周辺では「籠達先生」のニックネームも
「定年退任が何だ。明日も今日のように暮らす」

チョ・フェジュ先生は1994年ごろから本格的に労働者政治運動に飛び込んだ。 2007年には現場労働者と「現場実践社会変革労働者戦線(労働戦線)」を創立した。 2009年から6年間、労働戦線の代表をしている。 これを始め、彼の活動範囲は竜山惨事、江汀村海軍基地設立反対などの社会運動と、 双竜車、ユソン企業など労働運動全般に広がった。 竜山氾国民対策委と双竜車氾国民対策委共同代表もした。 座り込みは日常になり、20日近いハンストも経験した。 周辺で「籠城の達人」というニックネームが付けられるほど、彼の座り込み経験は数えられないほど多い。

[出処:チャムセサン資料写真]

「座り込みは何度もしたのか覚えていない。 全教組の仕事もよくしたし、座り込みは毎年一回以上はしただろう。 一番長くした時は、竜山とユソンの時か。 ほとんど毎日、人々と一緒に暮らしていた。 竜山、双竜車、ユソンなど、すべて激しい闘争だった。 竜山の時は執行猶予と保護観察まで受けたから。 連行も多く、罰金もたくさん払った。 ハンストはあまりしなかった。 私はハンスト闘争に反対するから。 竜山の時に15日ほどしたようで、双竜車闘争の時は20日ほどした」

彼は一番思い出す闘争として、サンムン高等学校の民主化闘争をあげた。 当時、彼が全教組ソウル支部長を歴任していた時だった。 闘争の経験がなかったサンムン高校の教師たちは教員団体を尋ね歩き、助けを要請したが、 いつも無視されて、結局最後に来たのが全教組ソウル支部事務室だった。

「尚文高校の教師が訪ねてきた。 それで私が『今、全教組は力がない。だからあまりできることはない。 しかし教師たちが先に立って戦うのなら、私は拘束を覚悟して共に戦う』と言った。 すると教師たちが全教組に加入するって。 それで私がそれも止めさせた。 今は全教組に加入しているかどうかが重要なのではないと言った。 教師たちが『では、どうすればいいのか』と聞くので、 暗に『教育庁の前で座り込みをする方法がある。内部的に議論をしてみろ』と送りかえした。 すると教師たちが議論して、座り込みを始めた。

そうして「今の状況では突破口を見つけるのは難しい。 闘争水位を少し上げなければいけないが、教育庁を占拠してみてはどうか。 内部的に議論をしてみろ』と話した。 するとまた教師たちが内部的に激しく論争をした。 結局、教育庁を占拠した。 教育庁占拠座り込みをした時は零下13度の寒い冬だった。 教育庁前で記者会見があって、座り込みをした先生と少し出てきたところ、警察が突然取り巻いて入れてくれない。 私が腹が立って上着を脱いでしまった。 上着を脱いで30分デモしたら、その時やっと警察が抜けた。 サンムン高校の闘争は、教師が闘争の主体になり、結果も良かった。 闘争が終わってサンムン高校の教師50人ほどが集団で全教組に加入した」

彼はさまざまな教育運動と闘争を通じ、一定の成果も経験したが、全般的な教育システムを変えられなかったことに対する惜しみも持っていた。 特に大学の序列化と競争教育を生む入試問題は、果敢に「廃止しなければならないこと」にあげた。 チョ・フェジュ先生は「立派な活動家1人が学校現場を変えても、彼がいなくなればその学校は元に戻る」とし 「全体の教育システムが変わらないからだ。 全教組は何よりも教育制度をどう変えるのかを活動の中心に置かなければならない」と強調した。

労働運動がもう少し階級運動を指向しなければならないという期待も表わした。 新自由主義政策が入ってきた後、社会の二極化はさらに深刻になったが、労働運動は87年の労働者大闘争以後、安住しようとする傾向が見られると指摘した。 彼は「労働者たちが闘争しなければならない時期なのに、 戦闘的な労組も自分の事業場に安住しているという気がする」とし 「その意味で、全ての運動が共同で連帯する流れは弱まっている」と話した。

「現在の資本主義体制の中で、ずっと戦って闘争すれば、労働条件などは変えられるかもしれない。 だが利益だけを追求する貪欲の資本に反旗を翻さなければ、根本的に人の中の社会を作るのは容易ではない。 民主労総をはじめ、労働者たちが変革的、階級的な観点で巨大資本に対抗する反資本主義闘争を作らなければ、人が中心の社会を作り出せないと思う」

二時間近くインタビューが続き、チョ・フェジュ先生は 「回顧録を書くつもりか」と面と向かって非難した。 急いで、最後の質問として、定年退任以後の計画を聞くと、 「みんなが一番多く尋ねた質問」だといぶかしがる。 30年近く昨日と同じ今日を生きている「青年籠城達人先生」の立場としてはいぶかしい質問にならざるをえない。

「退任後にどうするのかという質問をよく受けるが、どうする。 ただやってきた通りにする。 退任したかどうかの境界があるわけでもなく、昨日と今日が大きく違いもしない。 生きてきたとおりに暮らすべきではないか? 退任もただ一つの手続きでしかない。 それでも計画や構想というよりは、期待程度を話せば、ちょっと全国を歩き回って、人に会いたい。 組織のために歩き回るのではなく、ただ好きな人たちと会うこと。 そしてちょっとした菜園も耕したくて、楽器も一つ習いたい。 うまくいくかはわからないが」

8月29日、ソウル市大学路のノドゥル夜学4階の教育館で、昨日と同じ今日を生きる「青年チョ・フェジュ先生」の定年退任記念式が開かれる。 これまでチョ・フェジュ先生と共に同じ道を歩いてきた教師と労働者、活動家が作った席だ。 チョ・フェジュ先生は主催側に繰り返し「ただ静かにやり過ごそう」、 「なぜこんなことをするのか」、 「ではトークショーで私を抜いてくれ」と訴えるが、 みんながそのままやり過ごすわけがない。 イベントは6時30分から始まり、1部の「チョ先生が歩いてきた道」のトークショーと、 2部の「初めてのように」文化公演などが続く予定だ。

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2014-08-31 22:00:48 / Last modified on 2014-08-31 22:00:49 Copyright: Default

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