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全泰壹とキャンドルの階級的意味

[ヤン・ギュホンコラム]労働者階級の課題は相変らず進行形

ヤン・ギュホン(労働者歴史ハンネ代表) 2017.12.26 14:51

2017年の新年を迎えるにあたり、 キャンドルが触発した変化を実感しながら新しい計画を議論したのは一昨日のようだが、 もう一年が終わろうとする12月の末だ。 連日寒波の寒さが世の中をこちこちに凍りつかせているが、 社会から疎外された人々は、さらに肩がすぼむ。 12月なのに沈んだ雰囲気の中で闘争する労働者たちの手に、 かすかに光るキャンドルが冷えた手を温めている。 キャンドル1周年をむかえ、キャンドルについての多様な分析と解釈はもちろん、 過度な規定が新しい論争をあおっている。 時期と状況によりキャンドルの意味は変わるだろうが、 先のキャンドルは革命というよりも闇を照らして望みを表わすものだと見たい。

[出処:資料写真]

最初のキャンドル集会

筆者が経験したキャンドル集会は1970年代に遡る。 70年代末、全泰壹(チョン・テイル)烈士の追慕祭で灯されたキャンドルが最初のキャンドル集会だった。 民主労組の活動家30〜40人が小さな川を渡り、山の中を隠れながら行って、 慎重にキャンドルを灯して全泰壹烈士を追慕しつつ、 烈士の精神を継承・発展させるという決意を集める秘密の場であった。 11月上旬、冬風が吹きつける山の中は、耐え難い寒さだった。 その寒さは気温のためではなく、軍事独裁政権の監視の目に対する恐怖が、 さらに寒さをあおったのかもしれない。 互いを頼りながら、一本のキャンドルの火を両わきに移すと 暗い渓谷は明るく照らされていた。 キャンドルは隊伍全体を沈黙で取り囲み、 瞬間的な寂しさと緊張は次第にキャンドルの中に入り込んで、 凍った山奥を溶かしていた。 小規模なキャンドル集会だったが、その場は全泰壹烈士精神を解放精神と規定して、 民主労組精神を受け継ぐという決意が活動家たちの胸に揺れ動いていた。

烈士追慕祭のキャンドルは自分を燃やし、共に周辺を照らすという烈士の犠牲精神、 労働者一人一人は弱い存在だが、団結すれば何でもできるという希望を発見した。 そのキャンドルは、寒くて暗い渓谷でも、寒さを溶かして明るい光で照らすキャンドルだった。 緊張した追慕祭は、烈士の意を受け継ぐという決意が込められ、 その決意は厳酷な軍事独裁政権下でも民主労組運動の脈を続ける契機になった。

平和を基盤にする闘争戦術は、すべての価値に優先するものではない

約40年前にまっ暗な山の中で冷たい風を受けながら火を移したキャンドルが、 ソウルの都心ばかりか各地域の都心で灯った。 40本のキャンドルではなく、数千、数百万本のキャンドルが灯り、 弾劾という歴史的事件により権力が変わった。 民衆が参加して灯したキャンドルの海を蔑視するつもりはない。 しかし昨今のキャンドルで、政権の与党と野党が変わり、 ある者たちは「キャンドル革命」だというが、 巨大なキャンドルの威力にもかかわらず以前の全泰壹烈士の痕跡を発見するのは容易ではなかった。 30年前の6月抗争がそうだったように、全世界関心を集めて進められた頑強なキャンドルだが、 労働者たちの人生を照らすことはできなかったという意味だ。 こうした労働者の境遇とは無関係に、外信は平和なキャンドル集会が民主主義の象徴になったとトップ記事で扱った。 さらにキャンドル抗争により、大韓民国の国民意識を高く評価しながら、 美しい民主主義花だと絶賛を惜しまなかった。 キャンドル1周期に際して、平和な集会の方が銃とナイフよりも偉大だったとし、 「エーベルト人権賞」まで受けることになった。

キャンドルの威力について国際的な賛辞を惜しまないマスコミは、 それなりの意図があったと判断される。 この意図には非暴力という前提が敷かれていて、 反対概念である暴力は無条件に悪いという規定が含まれいる。 言論はもちろん、多くの活動家は平和なキャンドルデモが一番模範的で偉大な闘争であり、 政権まで交代させる成果をあげた最上の闘争方式だったと絶賛を惜しまなかった。 この主張が真理だとすれば、深刻な結果を生む。 東西を問わず、歴史的に革命を敢行した民衆に対する評価が切下げられるしかないからだ。 したがって、キャンドル抗争の非暴力性だけに焦点を合わせるよりも、 キャンドル局面をめぐる情勢において、 闘争の戦略と戦術が適当だったのかを適していたかを評価して報道しなければなるまい。

時期による情勢を考慮せずに、現れた現象だけに執着すれば、 私たちにおなじみの日帝下の民族解放闘争が暴力的戦術を駆使したのだから悪いことだというのだろうか。 6月抗争と労働者大闘争で自発的に噴出した暴力闘争は、どんな定規で見るべきなのだろうか。 また今この瞬間にも、抑圧される民衆と少数民族が世界の随所で革命と解放の銃刀をつかみ、抵抗するすさまじさをどう見るべきなのだろうか。 全世界の主流マスコミが一度でも彼らを深層取材して、 当事者の基本的な権利と生存の苦闘を報道したことを見たことはない。 彼らにもエーベルト人権賞を授けて、国際的な争点に浮上させれば、 エーベルト財団の評価は留保するとしてもキャンドル人権賞の意味は評価できる。

革命のダブルスタンダードが流行病のように広がっている

キャンドル闘争1年をむかえ、キャンドルの意味を解釈するのはそれぞれが処している状況と関係がなくはない。 現在、執権与党はキャンドル革命と規定して、 その他に市民団体はもちろん、学者たちも立ち上がって 「キャンドル革命の意義と今後の展望」という主題をめぐって甲論乙駁している。 では労働者階級にとってキャンドルはどんな意味であろうか。

私たちの日常では、キャンドルは祝いと追慕の意味が一般的で、 宗教的にすべての宗教は儀礼を行う時にキャンドルを灯す。 古代社会では、宗教は火を崇拝する意識が強かったが、 こうした人類の伝統が宗教儀式を明るく照らすキャンドルに落ち着いたと見られる。 カトリックのキャンドルは、世の中の光であるキリストを象徴し、 闇を追い出して明るい光を照らすキリストを現わすものだという。 仏教でもろうそくは衆生の無明(輪廻する根本原因)を呼び覚ますという意味で礼仏などの意識を明らかにして、 私たちもろうそくがない祭事は考えられない。 また、芸術的な意味では、ろうそくは自分のからだを焼いて闇を照らすという点で、 犠牲、真実、燃える情念などのイメージを生み、 多様な文学的な動機として使われてきた。 では労働者たちにとってキャンドルの意味は何だろうか。

多くの人々が先のキャンドル政局を革命だという。 政権交代闘争の頂点に立つ人々には説得力があるのかもしれないが、 労働者階級にとってキャンドル闘争を革命というのはまったくおかしい。 革命の辞書的な意味は「被支配階級が国家の権力を奪い、社会体制を変革すること」を言う。 しかし単に権力を掌握するだけではなく、 従来の慣習・制度・方式を根本的に変革させることをいう。 この言葉は特殊な階級的概念ではなく、一般的な概念なので、 市中で流行するキャンドル革命に重さを与えるには、 キャンドル前後で変わった革命的状況が裏付けられなければならない。

何が変わったのか。山積した労働者階級の課題は相変らず進行形だ

キャンドル闘争から1年を経過した今、 記録的な厳しい寒さが朝鮮半島を覆っている。 それは私たちにとって季節的な要因だけでなく、経済的な暮らしと政治的な状況が寒さをさらにあおる。 野党であった民主党が与党になり、積弊の中心にいたという朴槿恵(パク・クネ)が拘束され、 キャンドルを抑圧した権力者たちが続々と拘束されたり起訴されて裁判を受けている。 それでも朴槿恵退陣を叫んだ民主労総の委員長は刑期2年を越えても監房に閉じ込められており、 事務総長は民主党本部でハンストをしている。 路上では教育労働者が、公務員労働者たちが座り込みと集会闘争を続けていて、 建設労働者たちは広告塔に上がって連行されて拘束された。 青瓦台の前にはハイディス整理解雇闘争をはじめとする非正規労働者たちが野宿座り込みを続けている。 何が変わったのか。 野宿座り込み労働者のテントは、闘争が続いていて、 現政権は虎視耽々と座り込み物品を強奪する。 こうした姿はキャンドル闘争の前と後に差異はなく、 さらに彼らが言う革命の前と後がどんな変化も差異も全くないのに、 革命だと言い張るのなら、その革命は彼らの専有物でしかない。

根本的に何が変わったのだろうか。 ある人たちは、者らは文在寅政権が権力を取っていくらも経っていないのに性急だというだろう。 そうかもしれない。 しかし文在寅政権が打ち出した所得主導成長の実体が、 最低賃金の算定に賞与金を入れる側で進められており、 休日勤労割り増しを50%を適用して延長勤労割り増し50%は除くという方案が進められている。 つまり、賃金は削って労働時間は延ばそうとする労働法改悪の意図が一つずつあらわれている。 こうした状況でも絶えず強調する労使政合議体は、 これまで民主労組運動の成果を水泡に帰させる意図と解釈するしかない。

文在寅政府の労働政策全般に対する憂慮の声が時間が経つほどに高まっているが、 民主労総は選挙の時節だという理由で、政策的な対応は順調ではない。 こんな時を機会として、青瓦台は労政交渉と対話の場だという口実で、 各個撃破戦術を活用し、 個別の連盟を対象として多様なチャンネルを稼動させ、風を起こしている。 民主労組指導部出身者たちが先を争って文在寅政府に抱きこまれ、 生産する労働政策は労働者の暮らしにとって、希望ではなく暗雲として感じられる。 しかし民主労組陣営は組織的な対応ではなく労使政合議体と対話窓口だという風に揺れている。 2005年、民主労総の指導委員が労使政委員長に就任したという理由で民主労総が強く反発した時のような問題意識さえも見られない。 たとえその時と今で変わったものがあるとすれば、 さらにキャンドルの前後が革命的に状況が変わったのだとすれば、 何が変わったのか説明しなければならない。

キャンドル集会で耳をかすめた 「大韓民国は民主共和国だ。主権は国民にあり、すべての権力は国民から出てくる」という叫び。 本当に民主共和国で、主権は国民にあるのだろうか?

原文(チャムセサン)

翻訳/文責:安田(ゆ)
著作物の利用は、原著作物の規定により情報共有ライセンスバージョン2:営利利用不可仮訳 )に従います。


Created byStaff. Created on 2018-01-03 08:06:17 / Last modified on 2018-01-03 08:30:16 Copyright: Default

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