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LNJ Logo 使い捨てられた労働者を看取る生き方〜『山谷をめぐる旅』を読んで
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堀切さとみ

  『山谷をめぐる旅』(織田忍著/新評論社)
 これは私の友人が、山谷について書いた二冊目の本だ。
 山谷と言えば『山谷ブルース』。中学時代にフォークソングと出会った私には、懐かしいひびきを持つ。織田は今、そこで訪問看護師として働いている。彼女にとって山谷はノスタルジーではなく、現在進行形なのだ。

 関東大震災や東京大空襲からの復興の拠点であり、戦後の高度経済成長を支えた<山谷>。江戸時代には刑場もあり、あしたのジョーで有名になった泪橋は、罪人を涙で見送ったことに由来するという。しかし、先だっての東京五輪の頃には、山谷という地名は地図から消されていた。

 1980年代、労働者と右翼・金町一家との激しい抗争があった。寄せ場への偏見は強く、社協からも労組からも相手にされず、治安を名目に警察・右翼・機動隊が跋扈していた。


*山谷争議団(撮影:南條直子)

 山谷の記録映画を撮っていた二人の監督が殺された時、私は大学生だった。「山谷争議団」という言葉を聞いてはいたものの、初めて山谷に行ったのは、織田が最初の著書『山谷からの回廊』を自費出版した、2012年の夏である。私より10歳若い彼女の筆力に突き動かされたのだった。
 『山谷からの回廊』は「写真家・南條直子の記録」という副題があるとおり、山谷を撮った女性カメラマンがモチーフになっている。

 <山谷を撮る>というのは難しい。作業服にカメラを忍ばせて、隠し撮りするのが当たり前。そんな時代に、樋口健二に師事した20代の南條は、堂々と山谷に入り込んだ。女を武器にできるどころか、舐められ、脅され、カメラを奪われたことさえある。

 「ジャーナリストは人間のクソだ。一般の人より優れていると思ったら大間違い」 そう言って南條は、山谷のボロアパートに住みこんだ。そんな女性は他にいない。
 「厳然と日々を営む人々こそ主人公であり、沈黙と闘う人たちをとらえた者は、自分の立ち位置をいやおうなく問われ、その旅路に終わりはない」。千人以上の労働者が決起した<山谷4・3事件>は、南條が発端だった。彼女はその後アフガンに行き、地雷を踏んで33歳で亡くなった。
 没後何年もたってから、織田は南條の両親が住む岡山を訪ね、南條の足跡を掘り起こしている。

 織田は生前の南條を知らない。若き日に結婚し、三人の子をもうけた末に育児ノイローゼになったりと、南條とは違う人生経験を積んでいたが、何かを成し遂げる生き方を渇望していた点で一緒だったのだろう。学歴社会や、世間がよしとするレールから外れていくのは、今より難しかったはず。もがいた先に辿り着いたのが、山谷だった。
 1955年生まれの南條と、1975年の織田。女性をとりまく状況は、変わったように見えて変わっていない。


*南條直子

 『山谷への回廊』から数年後、織田は看護学校を卒業し、山谷の訪問介護ステーション「コスモス」に職を得る。すでに山谷は、闘う労働者の街から、福祉の街へと姿を変えていた。もう、表現するに値しない場所だ。今更ここで何をやるの? そう言う人たちに抵抗するように、織田は寄せ場に入り込んだ。
 国を支えてきた労働者は、バブルがはじけて切り捨てられた。外国人、非正規・・・調整弁は形を変えて今に引き継がれている。日本人の平均寿命より10年も20年も短命の山谷の労働者たち。労働者だけでなくこの地に引き寄せられた人々をも見守り、看取り、弔いながら、織田は『山谷をめぐる旅』を書いた。

 織田は言う。「山谷は生き直しができる稀有な場所、敗北感こそが役に立つ街なのだ」と。
 グッと来ながら全編を読んだ。前半は南條によって引き寄せられ、後半は紛れもなく織田自身が引き受けた山谷なのだと、熱いものがこみあげた。
 人が生まれ死んでいくのは、仄暗い白熱灯の下なのだというくだりは、織田でなければ書けなかったと思う。

 本名なんて知らなくていい。家族でなくても仲間が「おつかれさん」と言って、花を手向けてくれる。それで十分な人生ではないか。
 「人間としての根源部分を大切にしたい」という山谷の流儀は、もがいた末の女たちによって手渡されていたのだ。


Created by staff01. Last modified on 2024-12-08 10:50:59 Copyright: Default

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