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LNJ Logo 太田昌国のコラム : いつだって、私の心を揺さぶってきたロシアについて
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 ●第75回 2023年1月10日(毎月10日)

 いつだって、私の心を揺さぶってきたロシアについて

 新春早々『犬のハート』というソ連映画を観た(ウラジーミル・ボルトコ監督、1988年)。作家ミハイル・ブルガーコフ(1891〜1940)が1925年に書いた『犬の心臓』(新潮文庫など)に基づいての映画化だ。だが、進行中のソヴェト革命の内実に関わる辛辣な風刺と皮肉が込められた原作は検閲によって発禁とされ、ソ連で日の目を見たのは、ゴルバチョフのグラスノスチ(公開性)+ペレストロイカ(改革)路線が定着した1980年代後半になってからだ。書かれてから、実に半世紀以上の歳月が経っていた。

 作品内容の紹介は避ける。読むに値するとだけ、言っておきたい。権力に目をつけられたブルガーコフは、『犬の心臓』を書いた翌年の1926年の家宅捜査では日記を押収されている。1924年のレーニンの死後、急速に権力基盤を固めつつあったスターリンは、自らその日記を読んで、「人の神経を逆なでするように描く」ブルガーコフを「気にいった」とゴーリキーに言ったというエピソードが残っている。1930年3月には、ブルガーコフはスターリンに直訴状を書き、「国外追放」を要請した。すると、詩人マヤコフスキーが自殺した(同年4月)直後にはスターリン自らがブルガーコフに電話した。ブルガーコフは「亡命しない」と伝え、スターリンは「いつか会って、お話しなければなりません」と言ったという。独裁者の一存ですべてが決められていく社会における、作家・表現者の孤独な葛藤が垣間見えて、これら一連のエピソードには胸が締めつけられる。

 映画『犬のハート』の上映は、字幕翻訳者・守屋愛さんと、かの女が教鞭を取る慶応大学でサークル「慶應ロシア語の森」に集う学生たちの企画によって、一度限り実現されたものだ(1月8日、田町・札の辻スクエア)。一般公開の予定は、今のところ、ない。この映画を観るという僥倖に恵まれた私は、昨年2月24日の、ロシア軍のウクライナ侵攻以来の胸塞がる思いを振り返りながら、次のようなことを考えた。
                                                                                                                                                                                                                                                                             ――ロシアは、いつだって、私の心を揺さぶる。「諸民族の牢獄」と言われた帝政ロシアの時代に生まれて高い峰をなす幾人もの作家とその作品名については、ここで挙げるまでもないだろう。20世紀初頭の世界を震撼させた社会革命も、少なくともその初心において、世界じゅうの多くの人びとの心を惹き付けた。だが、20世紀初頭の革命的な高揚は、たちまちのうちに、烈しい内戦・日本を含めた外国の干渉戦争・飢饉を経て、権力闘争・粛清・虐殺・強制収容所群島……に転化した。それには、もちろん、ボリシェヴィキ指導部の責任が大きい。立場によっては、革命下において、ツァ−リの牢屋に代わる新らたな「牢獄」に囚われる人びとが多数生まれた。いささか感傷的な物言いに聞こえるかもしれないが、人類史の未踏の地平にいち早く歩み出たロシア・ナロード(民衆)は、それゆえの試練・苦悩・屈辱・煉獄に耐えなければならなかった。その苦闘を伝える表現も、私の心を打った。

 昨年2月に起きたロシア軍のウクライナ侵攻以降、私は、以前は慣れ親しんでいたがしばらく念頭から離れていたロシア革命史に孕まれる諸問題や、19世紀の文学および革命後の文学に描かれてきたテーマ・情景・人物像などをしばしば思い起こすようになった。

 否、ロシア革命百年を迎えた2017年以降は、その敗北・失敗の歴史を自分なりの方法で再審に付すために、ロシア革命再検討の作業を続けてきたから、ささやかとはいえ積み重ねはある。その過程で強まった思いも込めて言うと、反共産主義者=プーチンの今回のウクライナ侵攻という愚挙・暴挙については、ソ連/ソ連共産党/ボリシェヴィキの時代を振り返ることなくしてはその根拠を探ることはできないと考えるに至った。それは、1917年から1991年まで74年間にわたって、広大な自国領土のみならず、第二次大戦後に形成された東欧社会主義圏に対しても絶対的な権力を揮ってきた存在だったのだ。権力の中枢部にいる者、そのパラサイト(=寄生者たち)以外の他者には、つまり市井のナロードには、堕落したボリシェヴィキ派の幹部ひとりをリコールする権利すら許されることはなかった。

 プーチン(1952年生まれ)は、この体制を実現する権力機構の中でも最も強力といえる国家保安委員会(KGB)諜報部員として若き日々を送った。東西ドイツが統一する1990年まで、彼は東ドイツ駐在のKGB諜報員で、主としてNATO情報を探っていた。東ドイツの悪名高い秘密警察=国家保安省(シュタージ)との関係もさぞ緊密だったに違いない。彼は反共産主義者ではあったが、ソ連社会に生きる以上は、予め定められた頑丈な殻に我が身を合わせるしかない。そうして生きることは、秘めたる真情は別にあるにしても、官僚機構における物事の決定の仕組みに通じることを意味し、何よりもその官僚機構を利用して自らの地位を確立し、保全する道を知ることに繋がった。プーチンは、すなわち、批判を許さない絶対的な存在であるボリシェヴィキの専横ぶりを見ながら自己形成を遂げたのだと言える。

 こんな思いが深まっていた昨秋、カンボジア特別法廷が最終判決を下して閉廷したとのニュースに接した。1970年代、ポル・ポト政権下で、当時の人口の4分の1に当たる200万人以上の人びとが虐殺された事実に鑑みて、当時の政権の元幹部5人が裁かれたのである。高齢の被告のうち2人は公判中に死亡し、最後に終身刑の判決を受けたのは、91歳の、もと国家幹部会議長キュー・サムファン(1931年生まれ)だった。キュー・サムファンはパリ留学時代の1950年代に、低開発国が自立的な経済体制を樹立することがいかなる困難に包囲されるものであるかを分析した論文を書いており、それはとても心に残るものだった。それだけに、彼らが新たな権力者に成り上がる過程で犯した民衆の大量虐殺と、公判廷において彼自身が虐殺の事実について「知らぬ存ぜぬ」を貫き通したことには、愕然とするほかはなかった。ここにも、ロシア「ボリシェヴィキ派」がいたのだ。

 「社会主義」が初源的に有していた高い倫理的位置を利用して、自らが作り上げた体制を社会主義と呼ぶ者たちに騙されてはいけない、と改めて思った。そして、このカンボジア特別法廷終幕のニュースを見聞きしながら、こうも思った。そういえば、ロシアでは「ボリシェヴィキ特別法廷」が開かれていないな、と。ソ連共産党治下にあって、「類的共同社会」の建設という初心に甚だしく背くことには、飢饉・大量虐殺・大量粛清・強制収容所群島化……などの現実が生み出されてしまったのだから、この事実と向き合うことなしに、ロシアは先へ進むことはできないのではないのか。それは、左翼革命の理念と実践に賛成するか反対するかを越えて、ロシア社会全体が取り組まなければならないほどに重大な問題ではないのか。それを怠ったことが、プーチンの今回の暴走の重大な一因となってはいないか。

 同時に、こうも思う。自国の過去の歴史といかに向き合うのか。これは、ロシアに限って問われていることではない。


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