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9条改憲阻止の会 メール通信 20211128
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改憲情勢の分析、9条改憲阻止運動の総括 そして展望を切り拓こう

  三上さんの『改憲阻止の総括と展望』第4回目をお送りいたします。
                           (メール通信担当)

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改憲阻止の総括と展望(4回)
   ―安倍政権の憲法改定の挫折と改憲の今後―
                                                               三上治
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(5)
 1962年の春から秋に向かって行く過程でのつかの間の憲法闘争(正確には憲
法公聴会阻止闘争)のことはどこかの歴史年表で1、2行の記録として残されて
いるのかもしれないが、それはほとんど残っていない。これには岸信介の憲法
改正構想が池田首相の憲法議論の封印で頓挫し、憲法調査会の活動(答申)も
宙に浮いた形になったことがある。政治的に憲法改正問題が再び登場するのは、
2000年に第二次とでもいうべき憲法調査会が登場してからである。大雑把にい
えば、1960年代の前半から1900年代末までは直接憲法改正は政治課題としては
現れなかったと言って良い。ただ、自民党は憲法改正−自主憲法の制定を党是
として掲げていたし、野党は憲法改正反対(護憲)を主張していた。そして55
年体制下で選挙では三分の一の議席をめぐる問題として憲法問題は存続してき
た。大きな枠組みとしてそれは存続してきたのである。だだ、記憶しておいて
いいのは、この四十年に近い歳月の間は憲法改正をめぐる問題は直接的な政治
課題としては登場しなかったのである。

 憲法改正をめぐる攻防は自民党の成立と党是としての憲法改正(自主憲法制
定)が掲げた時点からはじまっているわけだが、それは自民党成立後の最初の
選挙と憲法調査会の問題として出てきたが、それ以降は選挙での三分の一議席
の問題としてあり続けてきただけということになる。具体的には直接的な政治
課題としては出てこなかった。ここには自民党の内部が党是として憲法改正
(自主憲法制定)を掲げても意見の一致が見られなかったということである。
(鳩山一郎―岸信介の系譜、民主党の系譜は憲法改正派だったが、吉田茂の自
由党の系譜は憲法擁護だった)。このことは左派(左翼・あるいは反体制派)
は護憲を掲げていてもその内容は一致したものではなかったことに対応すると
いうことである。よく知られているように日本共産党は戦後憲法の制定期に
は憲法9条に反対だった。護憲という枠内でいても、現行の憲法に賛成なのか、
どうかは明瞭ではなかった。

 戦後の政治体制はアメリカの占領政策を受け入れることで、つまりは戦後改
革を受け入れることで成立した。大日本帝国憲法の日本国憲法への改正はそれ
を象徴するものであった。これは日本が敗戦の結果としてできた米ソ支配体制
(ヤルタ体制)を受け入れ、米ソ支配体制に合わせた体制転換をしたことであ
る。憲法改正(日本国憲法の成立)がアメリカ占領軍に押し付けられたもので
るという理由が自民党の憲法改正論の理由になった。押し付け憲法論である。
それは憲法改正の名目であり、占領下の憲法改正は許されざることであるから、
憲法改正の理由としては一定程度浸透することであった。だが、その憲法改正
の眼目は憲法9条(非戦条項)が占領軍の日本弱体化政策に基づく戦争権とい
う国家権利のはく奪であり、その回復(復権)ということにあった。要するに
9条の戦争放棄と戦力非保持を国家権利として回復するということであった。
(現実には憲法改正は進まなかったから、憲法9条は自衛のための戦争や軍隊
を放棄しているわけではないという憲法解釈で自衛隊の創設をやった)。また、
民主主義的な憲法規定は行き過ぎたものであり、それを国家主義的に修正する
ということがあつた。基本的に戦後憲法の基本的人権・平和主義・国民主権と
いったものを戦争権の復権?民主主義の制限(修正)という形で改正しようと
することだった。これには民主主義が権力の弱体化政策であるととらえられて
いた。

 それは歴史の逆コースといわれ、戦後政治体制の戦前への修正というように
いわれた。(いうまでもなく、この歴史の逆コースは自民党、あるいは保守党
の基本的傾向といわれてきたが、これはもっと複雑であった。体制党としての
自民党の政治理念は複雑であり、このような政治理念で括ることの出来ないも
のだった。このことは留意しておいた方がいいことである)。
鳩山一郎―岸信介の民主党の系譜の保守派と吉田茂系統の自由党の保守派の理
念はかなり違っていて複雑だった。憲法(日本国憲法)の評価の位置づけは
それを端的に示していたといえる。

 1945年(終戦)の年から1960年安保闘争までの左翼の歴史では日本共産党と
日本社会党が大きな位置を占めていた。保守に対する対抗軸という存在はそこ
にあった。1960年安保闘争を契機に新左翼といわれるものが登場し、やがて
は大きな位置をしめる。伝統的左翼(左派)として共産党と日本社会党は戦後
の左翼として大きな位置をしめるが、これは1920年代30年代にかけて最盛期に
あった戦前の左翼の復活版と言えなくはない。大正末期から昭和のはじめにか
けて左翼運動は全盛期にあったが、これは戦争への足音の中で消されるか、沈
黙を余儀なくされた。この左翼は敗戦を契機に復活した。これは戦争を主導し
た右翼や保守が政治的力を失ったからである。敗戦において日本は国体の護持
を条件にしたが、これは国内での旧体制派の支配の継続を目論むものであっ
たが、敗戦が和平派によって推進されたように、戦時期に主導力を持っていた
政治家は力を失った。それは軍(軍事官僚)が力を失ったことだが、戦争期に
抑え込まれていた左翼は敗戦期に復活するのである。その基盤は戦時期に戦争
遂行者たちの独裁的で強権的な振る舞いに対する批判が戦争への批判と共に登
場したことにある。戦後に戦前の左翼(左派)が復活したことはこの基盤によ
っていたのである。日本共産党は戦前に獄につながれていた人たち(徳田球一
や志賀義雄や宮本顕治ら)が復活となる。これに対して社会党は戦前の労農派
の人々が復活することになる。山川均や向坂逸郎がいたのである。1920年代に
最盛期にあった左翼が復活したのである。これはマルクス主義の復活と言って
よかった。これは体制の変革を目指す政治運動の登場と言ってよかった。大き
な枠組みでいえば、ロシアマルクス主義の思想を基盤にする政治運動と言って
もよかった。大衆的な基盤という意味では歴史の逆コースに対する危機感(戦
争の復権と民主主義の制限への危機感)、そこから出てくる体制(権力)批判
だった。その運動の政治的指導部という機能を共産党や社会党は果たしたので
ある。彼等の憲法に対する態度というのは護憲ということであった。伝統的左
翼は1960年の新左翼(独立左翼)の登場で基盤的変化が生じるが、ここで検討
して置きたいのは伝統的左翼がもっていた社会変革(政治変革を含む)の理念
(原理)と憲法との関係である。伝統的左翼は一般的に護憲派(特に社会党)
と言われてきたが、そのことは検討してみて置いた方がいい。(後に、新左翼
あるいは独立左翼と呼ばれる部分の憲法観の検討するが、そのときに参考にな
るだろうと思えるからだ)。

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