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LNJ Logo 朝鮮人労働者を助けようとした日本人労働者
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〔福岡TS〕 

韓国人への敵意と憎悪を安倍政権とマスコミが煽動する中、福岡県で朝鮮人労 働者と日本人労働者の連帯を示す集会が9月17日に開催されます。  1945年9月17日、福岡県田川郡糸田町にあった真岡炭鉱第三坑で事故に 遭った朝鮮人労働者を救出しようとした日本人労働者が、その目的を達成できず に死亡しました。朝鮮人労働者も死亡しました。  太平洋戦争中に行われた無理な増産による「無茶掘り」や資材不足によって敗 戦直後、全国の炭鉱では毎日のように事故が起こりました。三人が死亡した真岡 炭鉱第三坑の事故はその一つでした。  戦争中に16歳で朝鮮から徴用で連行され、帰国直前に事故に遭った朝鮮人労 働者を、危険を承知で日本人労働者が助けに行き死亡したこの事故を追悼する集 会が2009年から開催されました。今年で10年目になります。  この集会の案内のメールと、昨年の集会を取材した新聞記事を転載します。 (ここから)  田川郡糸田町の真岡炭鉱で、1945年9月17日、枕崎台風に起因する坑内 事故で犠牲になった朝鮮人少年と、彼を助けようとして犠牲になった日本人3人 の追悼式が、2009年より行われています。  朝鮮人少年の名前は永らく不明で、1981年に慰霊碑が建てられた当時は“ 不詳”と刻まれました。  しかし、その後、横川輝雄先生の調査などにより、本名が判明しました。少年 の本名は姜相求(カン・サング)、1945年2月に16歳の若さで真岡炭鉱に徴用され ました。祖国は解放され帰国する直前に事故で亡くなったのです。2009年、彼の 本名が碑に刻まれ、追悼式はその時から開始されています。  私は昨年、筑豊を巡礼した折に1人で真岡炭鉱慰霊碑を訪ね、元隣保館館長の 樋芝さんから色々とお話しをお伺いしました。慰霊碑の建立と朝鮮人少年の名前 を探し出すのに尽力された元町長の田中さんはすでに他界されていました。  追悼式は続けられていますが、参加者が少なくなっており厳しい状況です。糸 田町はこの追悼式を町の慰霊祭へ統合し、殊更に真岡炭鉱での事故を強調しない 方向でいこうとした経緯があったらしく、樋芝さんたちがそれに反発して、自分 たち独自の追悼を少数でも続けている状態です。  昨年は、福岡からの参加者ならびに、関東の大学から筑豊のスタディワークに 訪れた10数人の学生たち、福岡のチャンゴ教室のメンバーたちなどが集まり。 40数名が集まる中で追悼式が行われました。(画像記事参照)  金光烈先生は「名前の一つ一つが命である」と仰っていました。お寺の過去帳 に残った朝鮮人犠牲者の名前を一つ残らず記録することが、命の証しになるのだ と。一つの名前を探しだし、記録し、慰霊碑に刻んだその事実を伝えていくこと も、また歴史の風化に抗していくことに他ならないことだと思います。 2019年 9月17日(火)午後3時より、今年の追悼式が行われます。 平日ではありますが、 もし都合がつきますようであれば、お誘いあわせの上、追悼式への参加をお願い いたします。 慰霊碑の住所〜真岡炭鉱第三坑殉職者慰霊之碑 〒822-1300 福岡県田川郡糸田町(その他)2735−2 アクセス 公共交通機関ならば〜平成筑豊鉄道糸田線・松山 駅より徒歩約7分(650メートル) 博多からは⇒(JR福北ゆたか線)新飯塚⇒(JR後藤寺線)田川後藤寺⇒平成 筑豊鉄道糸田線・松山 駅 よろしくお願いいたします。 (ここまで) 

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