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LNJ Logo 太田昌国のコラム:南北首脳会談報道に欠けていること
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 ●第18回 2018年4月28日(毎月10日・25日)

 南北首脳会談報道に欠けていること

 一般的に言って「政治家」への不信が、私の心中深く渦巻いているのは事実だとしても、4月27日の朝鮮半島の南北首脳会談の様子は、中継されている限りは、山積している仕事を放り出してでも見るほかはなかった。ふたりの立ち居振る舞い、交わされている会話――それを現認したかった。歴史的な瞬間に立ち会っているという臨場感があった。金正恩氏と文在寅氏が握手し、南北を隔てる軍事境界線を南へ、そして北へと跨ぐシーンには、思わずこみ上げてくるものがあった。

 文在寅氏が去る4月3日「済州島虐殺70年犠牲者追悼式」で行なったスピーチを読んだり、南北首脳会談実現に向けてのこの間の努力を見たりしていれば、この人物が世界的に見て並み居る政治家の中にあって頭一つ以上抜け出た見識を持っていることは明らかだった。今年に入ってから金正恩氏が打ち出してきた対話に向けての政策を見れば、確かに「変化」の兆しはあった。だが、最高権力者就任以来の諸政策やチュチェ思想国際研究所編『金正恩著作集』(白峰社、1巻2014年、2巻2018年)の内容を見聞きして、耐え難いものを感じていた。会談の様子や発言の中身を知ると、文氏は予想通り、金氏は意外な一面を見せた。会話の当意即妙なこと、考え抜いた言葉を即興で語っていることに、深い印象を受けた。

 日本のテレビ局スタジオに居並ぶニュース・キャスターやコメンテーターの発言には、おしなべて、ふたつの問題があった。

 一つ目は、朝鮮半島の分断と対立の状況に対する日本の責任を顧みる発言が、まったく聞かれない点である。不条理な現実が厳として存在してきたのなら、それには歴史的な根拠がある。明治維新以降今日に至る150年の歴史の中で、日本が朝鮮に対して行なってきた数々の「仕打ち」がこの分断に加担してきたことに触れずして、何を言えようかという内省を欠く発言ばかりだ。政府レベルでも民間レベルでも、加害側である日本がその歴史的な責任について謝罪し償うどころか、居直って自国の侵略行為を正当化した挙句、見聞きするに堪えぬ憎悪と排斥の言葉を相手方に浴びせかける光景がこの社会では日常的なものになっているだけに、この振り返りは決定的に重要なのだ。

 今年に入って、私は「明治150年」をめぐって話す機会が複数回あった。その時は必ず、現首相が尊敬するという吉田松陰の「幽囚録」(1854年)に書かれた文言を引用した。日本は急いで軍備を備えて、蝦夷地→カムチャッカ→オホーツク→琉球→朝鮮→満洲→台湾→ルソンを収め、進取の勢いを示すべきだとの指針を示したものである。近代日本は、松陰のこの言葉通りに対外的な領土拡大の道を選び、アジアで唯一の植民地主義大国となった。板門店での歴史的な南北首脳会談を見ながらまず思うべきは、分断された朝鮮に対して日本が負う責任であった。戦後日本の「平和と民主主義」路線が欠くのは、植民地主義の総括だとする問題意識こそが重要だ。

 二つ目は、この期に及んでも「拉致・核・ミサイルの包括的な解決」が重要だとする発言が変わることなく語られることである。甚だしくは、板門店宣言には「日本人拉致問題へ言及はなかった」などと指摘する者がいる。お門違いの要求をするのは、止めたほうがよい。この問題が、南北にとっての重要な案件であるはずがない。その理由は、蓮池透氏や私が繰り返し語ってきたことだ。関心をお持ちの方は、私の『拉致異論』(太田出版、2003年。その後河出文庫)や蓮池氏と私の対談『拉致対論』(太田出版、2009年)をお読みいただきたい。「日本は拉致問題を抱えているから」といって南北融和の方向性に難癖をつけるのは、おこがましくもこの問題の「司令塔」を自任する首相だけに任せておけばよい。メディアに出る人間は、「金正恩氏のように」(!)、ものを考えて言葉を発する責任を自覚すべきだろう。決まり文句に倚りかからずに。


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