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辺野古の「非暴力の闘い」にふれる〜座り込み600日目・参加報告

    笠原眞弓

 2月26日の朝、まだ真っ暗な中恩納村の宿から総勢15人が辺野古のゲート前に出発。女性4人うち3人は、未経験。昨夜から「座り込みって、どうするの?」「隣の人としっかり腕を組んでいればいいの?」「怖いね」と、ドキドキしながらの出発である。

 沖縄の5時はまだ真っ暗。6時過ぎには資材の搬入があるという。その阻止に向かうのだ。1回止めれば、それだけ工事が遅れる。それだけ勝利する。小さな勝利の積み重ねが、大きな勝利へと導く。そんなことを胸に、まず寄ったのはゲート近くのコンビニ。高校生みたいに寄り集まって朝食をとる。

 さて、ゲート前に着くと、わずかな照明の中にテントが見え、幡が翻っている。狭いところに、人のかたまりが見える。マイクを通した嗄れた声が聞こえる。あゝ、山城博治さんだ(写真)。歌を唄い出す。前日、前々日の水・木は、400〜500人の人が集まって搬入を阻止したと聞く。「水曜行動・木曜行動」(水曜は、県内議員の総行動の日としてはじまり発展している)といい、週のうち2日を集中して止めるという。あと1日増やしたいとも言っている(帰宅後、火曜も行動日となり、那覇からバス便を増発すとか)。今日は金曜なので、人数は少ない。座り込み場所にはブロックの上に板を置いて、冷えないように、疲れないようにの配慮までしている。

 山城さんが「機動隊と遊ばない、闘わない、座り込むだけに徹底しましょう。排除されるときは、以前は身を任せてといったけど、腕などに負担がかかりすぎるので、辛かったら自分で歩くように」と注意を話す。そして「絶対的非暴力で権力と闘うこと。負けてはなりません。負けてはなりません。あとのない闘いをしているのです」とテンションが上がってくる。

 次は、仕事前に座り込みに来ている衆議院議員の糸数慶子さんのスピーチ。「辺野古の非暴力の闘いは、世界に広く知られています。同じ地位協定のあるイタリアでは、アメリカと闘って不平等を是正しています。私たちも、アイヌ、沖縄、女性など、あらゆる視点で基地問題を世界に発信しています」と。

 私たち農民グループの名前が呼ばれる。1人ずつ短い挨拶。私(写真左)は「いつか現場で阻止行動に参加したいと思っていましたが、今日がその時です。東京から移住して闘争の渦中に飛び込んだ友だちと、ここで会うのを楽しみにしています」という。すると山城さん、「友だち来たら紹介してね」と。

 曇りの空も明るくなり、いまかいまかと待っているのにかまぼこ(機動隊の車)が来ない。搬入トラックも来ない。「最近は、普通の車で来たりする」などの情報も飛ぶが、それらしきものの気配もない。博治さんも「どうしたかねー」と手持無沙汰。高校生が話始める。「僕は○○です。どこから来ました。高校生で、ということは、授業さぼって……」と話し始めると、プラプラ周りを歩いていた山城さん、すっ飛んで行って、「配信止めて、止めて。配信、気を付けて」「ここでは、名前言わなくていいからね。」と。ご自身のスピーチの合間に、マイクが公平にわたるよう気を配り、時にはスクラムを組んで、ご自分が作詞した闘いの歌を合唱し、話が盛り上がってくると、飛び上がり、腕をぶんぶん回し、小さな体が、何倍にも大きく見えてくる。

 搬入ゲートから隣の一般のゲートに移動して抗議行動を始めると、中から沖縄県警の機動隊が出て整列し、「警告」をエンドレスに叫ぶ。「何時何分。名護警察署長から。道路に立ち止まるのは交通妨害になり道路交通法違反です。警告に従わなければ規制を行います。何時何分……」と。立ち止まらなければいいわけで、ぴっちりとくっついて、シュプレヒコールとともに、ただただ歩道をぐるぐる回る。機動隊もこちらの動きに合わせて、出たり入ったり。 私たちは、途中第2、第3ゲートに行ったり、友だちの案内でカヌー隊が出る浜に行ったり……。緊迫した現場を思い描いていたのに、少し肩すかしではあったが、今日は工事が進まなかったことを良しとしよう。午後は高江のテントに移動した。

 短い時間だったが、金武湾の闘い(石油備蓄基地反対)を安里清信さんと一緒に闘った崎原盛秀さん(写真)に出会えた。というか、帰宅してからそういう方だったとわかったわけで、そのことが残念でならない。私が闘争のあり方を学んだのが、金武湾の闘争の世話人をしていた安里清信さんを描いた映画『しばさし』(じんぶん企画)である。その安里清信さんと共に闘った方が、目の前にいらしたのに、まったく自覚なく「いつもいらしているのですか」とか、私の声掛けに律儀に立ったままの崎原さんに、「どうぞおかけください」としか言えなかった私。情けない。

 とはいえ、金武湾闘争の「住民運動はあらゆる思想信条を超えたところにあり、1人ひとりの主体的な結合体であらねばならない」との精神が、当時20代の青年だった山城博治さんたちに受け継がれていた。彼にとって参加している人たちは、十羽一絡げのかたまりでなく、1人ひとりが意志を持って来ていることをちゃんと感じて尊重していることが、何気ない振る舞いや言葉づかいの中に現れているのだ。

 機動隊とのガチンコ勝負はなかったものの、大きな贈り物をもらった気分でその後の沖縄滞在を堪能した。彫刻家の金城実さんや佐喜眞美術館の佐喜眞道夫さん、そして瀬長亀次郎の不屈館へ行けたのは、大きな収穫だった。文化に支えられた闘いこそ、真の闘いなのだと思う日々だった。


Created by staff01. Last modified on 2016-03-04 11:48:35 Copyright: Default

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