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LNJ Logo 松本昌次のいま、言わねばならないこと〜「私はシャルリー」にノー!
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第24回 2015.3.1 松本昌次(編集者・影書房)

「私はシャルリー」にノー!


   *テレビで連日報道された「私はシャルリー」

 「朝日川柳」(西木空人選・1月14日付)に、こんな一句があった。「テロにノー『私はシャルリー』に少しノー」(神奈川県・桑山俊明)。そして選者の「表現の『自由』とは?」のひとことが添えられていた。わたしは次のように添削したい。「テロにノー『私はシャルリー』にもっとノー」と。フランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」に掲載されたムハンマドやイスラムに関する風刺画は、風刺画ではない。これらは、ヘイト・スピーチになぞらえていえば、明らかなヘイト・ピクチャーである。絵も言葉と変わりない。なにが「表現の自由」か。

 森達也氏は言っている――「表現の自由とはそもそもが、これを規制したり弾圧したりする国家(や政治システム)に対して行使されるべき概念だ。その表現によって傷つく人がいるなら、決して無制限に許される概念ではない。僕たち日本人は今、その悪しき実例を、自国内で体験しているはずだ。」(「自然と人間」2015年2月)と。わたしたちが体験している「悪しき実例」とは何か。いうまでもなく「在特会」によって繰り返される在日コリアンに対する下劣なデモやヘイト・スピーチである。これも「表現の自由」か。

 しかも驚くべきことに、「シャルリー・エブド」襲撃事件直後、世界40ヵ国以上の首脳がフランスに寄り集まり、「私はシャルリー」のプラカードをかかげ、「表現の自由を守れ」と叫んで大規模なデモ行進が行われたことだ。そして最前列で腕を組んで歩く各国首脳の映像が流れ、あたかも世界中が連帯してシャルリーの正しさを追認するかのごとくであった。森氏は、「朝日」の論壇時評(1月29日付)でも、前記のように、「表現の自由」は何に向って行使すべきかを重ねて強調しつつ、このようなデモは「向きがまったく違う。」とのべ、英インディペンデント紙(電子版)の上から撮った写真にふれている。

 それによると、各国首脳たちは、わたしたちが新聞で見たように、デモの最前列を歩いてなどいなかったのである。「首脳たちは通りを封鎖した一角で腕を組んでいた。後ろにいるのは市民ではなく、数十人の私服のSPや政府関係者だ。つまり首脳たちは市民デモを率いてはいな」かったのである。このような、写真一枚からでも見えてくるメディアの操作がもたらす結果は何か。「私はシャルリー」であり、「わたしはフランス人」という一斉の団結の声である。フランスの人類学・歴史学者エマニュエル・トッド氏は、「私はシャルリーじゃない、つまり宗教上の少数派を保護し、尊重しなければと言ったとたん、本物のフランス人ではない」と決めつけられると憂えている(「朝日」インタビュー2月19日付)これは決して対岸の火ではなく、在特会などによる少数派の在日コリアンに対するヘイト・スピーチが、わがもの顔で横行する日本に生きるわたしたちの問題でもある。

 それでつけ加えたいのは、第三書館(北川明社長)による『イスラム・ヘイトか、風刺か』の刊行に、わたしは全く賛成できないということである。北川氏は、シャルリー・エブドの風刺画は明らかにヘイト表現と認めているが、ムハンマドの顔にモザイクをかければすむとでも思っているのだろうか。「朝日」に書いた文章のこの本への転載を断った森氏が言うとおり、「ネガティブさを強調する記号であるモザイクを安易に使うべきではない」(「朝日」2月11日付)し、何よりもまず、少数派の在日イスラム教徒の人たちが傷つき悲しむことに思いを致すべきだろう。いくら「これは風刺画ではない。『嫌韓』流のヘイト本だ。」と広告で弁解しても、認めるわけにはいかない。


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