本文の先頭へ
LNJ Logo 『前田裕晤が語る大阪中電と左翼労働運動の軌跡』をめぐって
Home 検索
 




User Guest
ログイン
情報提供
News Item 0508eto
Status: published
View


憲法にこだわり労働運動ひとすじ
前田裕晤が語り尽くす「左翼労働運動の軌跡」

         江藤正修・元「労働情報」事務局

 4月26日、東京・文京区のシビックセンターで「前田裕晤さんの傘寿と出版を祝う集い」が開かれ、70人が集まった。今年、80歳を迎えた前田裕晤さん(写真)の直近の肩書きは協同センター・労働情報の代表で前全労協副議長。1950年のレッドパージの年から労働運動・革命運動に飛び込んだ前田さんが今年4月、『前田裕晤が語る大阪中電と左翼労働運動の軌跡』(同時代社刊・2400円)を刊行したことと傘寿を祝おうという趣旨の集まりだった。

 この集まりでは60歳代以上にはなじみ深い方々が祝辞を述べたが、若い人とは無縁なので詳細は割愛、前田さんが出版した本の内容と人となりに絞って紹介したいと思う。

 まず、前田さんの略歴から。1934年生まれの前田さんは45年の敗戦時が11歳、軍国主義の教科書に自分の手で墨を塗ることで、戦前的な価値観とそれを担った大人たちへの不信を徹底的に植え付けられた世代である。したがって日本国憲法へのこだわりは「どの世代よりも強い」という。

 1950年4月、逓信講習所(貧しい中学生を選抜、官費でモールス通信のオペレーターを養成する学校)に入学した前田少年は同年秋の繰り上げ卒業後、レッドパージの後補充として大阪中央電報局に配属された。大阪中央電報局(大阪中電)は敗戦直後の激動期から1990年代初頭まで日本労働運動の拠点を担い続けた職場であり、電報オペレーターを中心に2千人弱の労働者が大阪市内の一等地、中の島に集結して一時期の日本における通信の中枢を担っていたのである。

 前田さんが入局した1950年当時の大阪中電はそれまでの共産党員活動家がレッドパージで根こそぎ追放され、当局側のボス支配が貫徹する職場に変貌していた。新卒の前田さんたちは、いわばレッドパージ後の第1期生として中電の民主化を軸とする労働運動の再建を職場サークルなどを通じてダイナミックに展開していくのである。

 この時代は非合法に追い込まれた共産党が武装闘争を展開した時期と重なる。前田さんたちはレッドパージでゼロになった共産党細胞を再建し、(その評価は別として)武装闘争にも共感を抱きながら、1960年安保闘争を契機にブントとして共産党から除名される時点までに、三桁の党員を擁する拠点職場を作り上げていくのである。

 1960年代の前田さんは、大阪中電の電通労研(ブントと第4インターを軸とする職場社研)に依拠しながら関西一円の職場にブント系労働運動を展開し、大阪中電を軸とする電通労研を新左翼労働運動の全国拠点にまで押し上げていった。そして、日大・東大全共闘が全学バリケードストライキを展開中の1969年1月、関西・宝塚に集結した新左翼党派(ブント、中核派、共労党、第4インター、社労同、フロント)と長船社研、電通労研、阪神共産主義者協議会は同年秋、大阪中電、国鉄田町電車区、東京都庁での反安保・反戦拠点ストライキを反戦派労働者の全国共同行動として展開することを決定した。

 しかし全共闘運動の衰退と度重なる街頭闘争での弾圧によって拠点ストライキを決定した69年1月の高揚は終焉した。そうした中で国鉄田町電車区と都庁での拠点ストは大幅な後退に追い込まれたが、ブント指導部は中電拠点ストをマッセンストライキとして貫徹することを決定。1969年10月21日、大阪中電の若手ブントメンバーは、数名でマッセンストライキに立ち上がるが、この戦術を無謀と考えた前田さんはその後、ブントを離党するのである。

 『前田裕晤が語る大阪中電と左翼労働運動の軌跡』では、ここまでが「第一部・党と革命、大阪中電の拠点化(1950年〜1969年)」にあたる。いわば40〜60年前の“神話の時代”であり、その時期を前田さんは自分史と闘争のエピソードをまじえながら縦横無尽に語りつくす。

 これ以降の時期についてはご存じの方も多いと思うので、目次のみの紹介にとどめる。第二部は「関西から全国へ、新左翼労働運動の広がり(1970年〜1980年)」、第三部は「労働戦線の再編と民営化の中で(1981年〜2014年)」の構成で、さらに第四部「座談会・全電通労働運動と大阪中電の時代」が加わる。

 この本は理論的労作でもなければ正鵠な労働運動史でもない。前田裕晤という一人の左翼労働運動活動家が、自分史を通じた戦後労働運動の諸要素を腹蔵なく語りつくしたという点に大きな特徴がある。それは大阪中電出身の著名な活動家たち、たとえばレッドパージで大阪中電を追われた中電初代委員長の村上弘(後の共産党中央委員会委員長)、初代書記長の浜武司(後の共産党東京都委員会委員長)、同青年部役員の荒堀宏(後の共産党労対部長)、中電の中軸活動家で関西の武装闘争の責任者であった上坂喜美(後の三里塚闘争に連帯する会代表)の消息を通じて、2・1ストを前後する日本の労働運動に実相が鮮明に語られる。

 その後の総評時代になると中電二代目委員長で全電通副委員長、社会党参院議員の片山甚市と筆者の因縁浅からぬエピソードの数々、右派として中電からの追放対象だった山岸章を取り逃がし、全電通委員長や連合会長へのなり上がりを許してしまった無念さの吐露、それらを通じて総評労働運動の衰退と民営化攻撃の実態が明らかにされるのである。

 筆者が明らかにするのは、そのような著名な活動家たちだけではない。前田さんとともに中電の労働運動を担った有名無名の活動家たちの恋愛や挫折を含めた生き様、当時の青春群像のありようが、正確に語られてもいる。

 そして1980年代の国鉄・電電の民営化や労働戦線の再編劇に関しても、筆者が知り得た真相を踏まえ、その実態の一端が初めて明らかにされている。その様子は個人の人物像を伴うだけにいっそう生々しい。

 これまで多くの左翼活動家は、この時期が現在に続く敗北の過程であり、その切開は痛みが伴うだけに、ほとんど触れないまま放置してきたのではないか。前田さんはそこに切り込んだ。この本が「理論的で正鵠な労働運動史ではなかった」としても、これを契機に後続の書が次々と記されるならば、前田さんの思いは十分に伝わったと思うのである。

同時代社HP


Created by staff01. Last modified on 2014-05-08 11:44:02 Copyright: Default

このページの先頭に戻る

レイバーネット日本 / このサイトに関する連絡は <staff@labornetjp.org> 宛にお願いします。 サイトの記事利用について