05 June
2006

社会運動のメディア

仲間内で情報をグルグル回して盛り上がっていてもしょーがないのである

常々、社会運動の情報を伝えるメディアについての議論が必要だと思っている。
紙メディアでは、週刊金曜日あたりがソレに近いのかもしれない。古くは(今も健在だけど)労働情報なんてのがある。労働運動関連では大小いろいろあって、市民運動なんかでもいろんなミニコミもある。
インターネットでも、日刊ベリタあたりが頑張ってるし、レイバーネットも労働の分野ではそれなりにやってると思う。
社会運動じゃないけど、最近は市民メディアってのか、JANJANだとかオーマイニュースだとかもあるにはある。
まあ、いろいろあるんだけれど、どれも「ちょっと違う」んだな。


既存の運動向けメディアに対するこの違和感は何なのか、考えてみると、つまり著作権や記事の扱い方に関する部分なんだ。
記事を読むには料金が必要だったり、無料でも転載は禁止されていたり、転載はできても改変はできなかったり。
理由はよくわかる。有料記事には有料の理由があるし、転載を禁止する理由もよくわかる。それがダメだというのではなくて、それでは現在の社会状況を変えていくための情報を伝えるメディアとして、十分ではないのではないか、ということなんだが。

そもそも著作権というのは、著作者や出版社を守るためのもの。著作権は出版という行為が成立する前提になっているわけで、メディア活動をしようとする限り、著作権を主張しなけりゃ、やっていけない。商業メディアであれ、非営利メディアであれ、あるいは運動のメディアであれ、メディアが著作権によって記事の使用に何かの制限を加えることは、あまりにも正当なのである。

ところで、だ。
それでは、メディアじゃなければどうなのか、ということを考えた。
世界を変えていこうとするアクティブな社会運動は、仲間内で情報をグルグル回して盛り上がっていてもしょーがないのである。
ぼくの回りの活動家たちは、世界化だの構造改革だの民営化だのというような問題について、もう10年ぐらい前から「これはダメだ」と言いつづけていたのだけれど、これらの問題点がある程度意識されるようになったのは、せいぜい1年ぐらい前からじゃないだろうか。もっとも、こうした問題に関する最近の議論には、どこか復古調で保護主義的な発想が感じられてうっとうしいんだけど、まあ、その話はいつかまた。

先日、韓国でメディア活動家の話を聞いてきたのだけど、彼らはもともとメディアをやりたくてメディア活動家になったわけじゃない。そもそも、民主化運動や労働運動、統一運動などの社会運動にかかわってきた人たちなのだ。つまり、メディア活動家である以前に、社会活動家なのである。彼らは、自分達がかかわっている社会運動の情報を伝えるためにメディアに飛び込んだ。だから彼らにとってメディアとは、極論すれば最終的な目的ではなく、手段にすぎないのである。

日本にも、特に労働運動を中心にそうしたメディアがあったし、今もあるのだけど、そうしたメディアは紙の時代の論理で動いている。デジタルと違って、印刷や製本、配送などの設備が必要で、とてもお金がかかる。だから、運動の情報を伝えるために、共同で設備やメディアを共有しようというのがそもそもの動機だった。コストを負担するためには、著作権的な保護が必要だった。

デジタルの時代、インターネットの時代になって、情報を伝えるためのコストが劇的に低下した今、個人のポケットマネーでインターネットのメディアを持てる。情報を流通させるためのコストという問題は事実上なくなった。だから、運動団体が独自のサイトを持ち、自分達の運動の情報を公開することができるようになったわけなんだが、問題は、その情報に対して旧来の著作権的保護を要求しているということ。もちろん、それは権利なのだから、それならそれでもいいんだけれど、保護を要求する意味がよくわからないことが多い。場合によっては、何の理由もなく惰性で保護を要求していることもある。それでいいの?と思ってしまうのだ。
どんどん転載したり、配布したり、あるいは内容を改変して新しい情報を作ることができれば、運動はもっと大きなうねりになるのに、と思ったりするのだ。

Posted by 安田(ゆ) at 04:31 | Comments (0) | Trackbacks (0)
コメント
コメントはありません
トラックバック
トラックバックはありません
Post a comment