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2017/09/23 渡そうバトン―米軍ジェット機墜落40年「平和のつどい」 講談「哀しみの母子像」神田香織。コーラス、リレートークなど(横浜線・中山駅)

9月23日(土)
 渡そうバトン―米軍ジェット機墜落40年「平和のつどい」 13時〜16時、緑公会堂(JR中山駅徒歩5分)。講談「哀しみの母子像」、神田香織さん。コーラス、リレートークなど。参加費990円(前売り900円)。高校・大学生300円。主催=実行委員会。問090(7288)2229(塩野さん)

http://hamarepo.com/story.php?story_id=1654

「横浜米軍機墜落事件」。
 1977(昭和52)年9月27日、厚木基地を飛び立った米軍機が、緑区荏田町(現在の青葉区荏田北)に墜落し、母親と2人の幼い子どもが亡くなった事件だ。

 事故について詳しく書かれた書籍『米軍機墜落事故』(河口栄二著/朝日新聞社)や、亡くなった土志田和枝さんが生前書いた日記をまとめた著書『あふれる愛に』(新声社)をもとにし、また遺族の方にお話を聞き、経緯や波紋を探ってみた。

 港の見える丘公園にひっそりと佇む「愛の母子像」は、墜落事故の犠牲者

パイロットは脱出。無人のファントム機が墜落した

 厚木が米軍の一大海軍基地となったきっかけは朝鮮戦争だった。以来、県の調べでは米軍機墜落の事例はなんと64件。多くはアメリカ人パイロットが死亡しているが、日本の住民8名が巻き込まれている。

 さらに1973(昭和48)年、空母ミッドウェーが横須賀を母港としてからは、空母に搭載する艦載機のタッチアンドゴー訓練のために厚木基地が使われ、軍用ジェット機の離着陸ががぜん激しくなった。今回取材した墜落事件の背景もそこにある。

 青葉区大場町の鉄塔。厚木を離陸した機体はこれを目印に海に旋回していたという

 その日、戦術偵察機RF-4Bファントム機は、厚木から千葉県館山の東南沖に待機する空母ミッドウェーを目指し離陸した。
ファントムといえば一時代を築いた超音速戦闘機。事故を起こしたのはその偵察機型で長さは約19m、重さ26tの機体だ。

 離陸後すぐエンジンから出火し、2名の乗員はパラシュートで即時脱出。ジェット燃料を満載した無人の機体は緑区の上空に取り残され、火を吹き轟音を立てて墜落した。離陸からわずか3分後のことだった。

 墜落現場は宅地造成中で家もまばらだったが、炎は一瞬で6軒の家を焼き尽くし、9名が負傷。中でも、墜落の衝撃で分解したエンジンが直撃した土志田和枝さん(当時27歳・亡くなった時の姓)と、ご主人の妹(26歳)は、衣服が焼け落ちた姿で2人の子どもを抱え、黒煙の中から飛び出して来たという。

 4人のやけどは最もひどい “全身熱傷3度”の状態。和枝さんの長男・裕一郎くん(3歳)、次男・康弘くん(1歳)のやけどは体表面積の100%に達していた。

 現場は閑静な住宅街。
まだ土だったここに墜落の衝撃で4mの穴が開いたという

 墜落時の熱風は30m離れた地点でも肩にやけどを負ったほどだそうだ。晴れた夏の昼下がり、アイスクリームを食べての団らんは一転。のどの渇きに苦しみながら、長男は深夜に、次男は明け方に、二人は母とは別の病院で亡くなった。

 パイロットのパラシュートは墜落地点から約3km離れた緑区鴨志田に着地した。連絡を受けた海上自衛隊の救難ヘリは無傷に近い二人のパイロットだけを助け、墜落現場に向かうことはついになかった。

 まだできたばかりの公園が最も激しく延焼した。今は事故の面影もなく静か



子どもを失った和枝さんの壮絶な4年4ヶ月を追う

 子どもたちの死を知らされなかった母・土志田和枝さんの壮絶な4年と4ヶ月はここから始まる。

 その記録は、和枝さんのお父さん土志田勇さんが書いた『「あふれる愛」を継いで』(七つ森書館)に詳しく、事故現場や火を吹くファントム機の写真など貴重な資料もまとめられている。

 一ヶ月もの危篤状態を抜けると、敗血症などの感染症を防ぐため、硝酸銀の薬浴に漬かるという厳しい治療が始まった。壊死した皮膚をはがすにも衰弱のあまり麻酔は使えない。想像を絶する苦痛に耐えたのは、子どもたちに会うためになんとしても生きようとしていたからだったという。

 皮膚移植が始まると今度は、繰り返される麻酔がのどを傷つけ呼吸困難におちいった。以降、のどを切開しカニューレという管が呼吸を助けることになる。移植で皮膚は伸縮性を失い、歩行もできなくなった。

東京新聞が呼びかけた皮膚提供の募集には1500人もの申し出があった
(『パパママバイバイ』より)

 42名からの皮膚提供を受け、車椅子で一時帰宅もできるほどに回復した事故から1年3ヶ月後、家族から和枝さんに子どもの死が知らされた。

 書籍には、窓口となった防衛庁施設局への恨みが増し、職員を大声で責め立てた事実も赤裸々につづられている。
子どもの死を知ってからの心理的リハビリは、和枝さんの精神をますます混乱させ、ご主人とも離婚。

 仮退院時もカニューレのあるなしにかかわらず、深夜になると呼吸に苦しみ、幾度となく救急車を呼ぶが、しまいには心因性のものとされ救急車の対応もなくなっていった。

 病院の勧めでなかば強制的に精神病院へ転院。和枝さんのショックは相当だったそうだが、退院してからの夢も語るようになった矢先、心因性呼吸困難で31歳の生涯を閉じた。

 子どもたちの死を知ったその日の日記を、緑区北八朔町(きたはっさくちょう)の「和枝福祉会」にある喫茶室「ぽっぽ」で見つけた。和枝福祉会とは、「元気になったら福祉の仕事で恩返しがしたい」と願った和枝さんの遺志を父・勇さんが継いで設立した施設だ。店名は、次男が “鳩ポッポ”を歌いながら亡くなったことにちなむ。

安保条約とパパママバイバイ。広がる政治・司法への波紋

 墜落当日に行われた機体の残骸回収と翌日の日米合同検証は、アメリカ主導で行われた。
 公務執行中の罪に対して、アメリカは第一次の裁判権を行使できるという“地位協定”(1960年の安保改正で条約化された、占領軍の特権の継続を認めた協定)のもと、これまで墜落事故では、日本の警察が原因と責任を捜査・追究することはなかった。

 これに対し、“安保男”の異名をとる飛鳥田横浜市長(当時)の事故の責任解明への尽力は、目を見張るものがあったという。親子の悲劇と安保条約。
 事故から2年後の1979(昭和54)年、『パパママバイバイ』(早乙女勝元著・草の根出版会)の初版が刊行。
 和枝さんの死から2年半後には、これを原作とした同名のアニメ映画が公開された。

 実はこの事件には、もう一人重いやけどを負った椎葉さんという女性がいた。日本にも裁判権があることを掲げ、米軍のパイロットを業務上過失致死罪で告訴している。結果は、日本政府がアメリカの特権を放棄させることはなく、不起訴。

 しかし、民事訴訟で7年後、横浜地裁は「米国人にも民事裁判権が及ぶ」という画期的な判決を下した。“不幸な事故”では済まされない“事件”であると初めて認めたのだ。


和枝さんの実兄が語る、遺族の願い

 今回、お父さんの勇さんに連絡を取ろうと生花店「青葉台ガーデン」に電話をしたところ、家業を継ぐ息子さん、つまり和枝さんの実兄・土志田隆さんから勇さんが数年前に亡くなったことを知らされた。

 初夏にはブラックベリー摘みもできる「和枝園」は、
知的障害者施設の分場でもある

 和枝さんの一家は告訴等せず示談を選んだ。国から支払われた賠償金で、父・勇さんは和枝福祉会を立ち上げた。
さらに “もう一度子どもたちを抱きしめたかった”と泣いた和枝さんを想い、母子像建立を思いつく。

 交渉の結果、横浜市が用意したのは、港の見える丘公園のフランス山地区のひっそりとした木陰。ただし寄贈しても良いが、碑文は付けないのが条件だった。

 事故から8年目に遺族から寄贈され、20年間は何の像かわからない状態だった

作者は山下公園の「赤い靴はいてた女の子」像を作った方

「訴訟を起こす団体ではないと判断されたのか」(隆さん談)、事故から29年目、ようやく碑文が取りつけられた。

 像の横に説明が加えられた。たった7行だが長い道のりだった

 子どもたちは生前、海を見たがっていたという。うっそうとした木で、海の景色も遮られがちの日が多かったが、撮影した日はちょうど枝払いされた後でベイブリッジがよく見渡せた。

取材を終えて

 火災が発生してすぐに機体を安全な場所に操縦することなく放棄したのは、岩国海兵隊航空基地から一時的に厚木に派遣された20代海兵隊員だった。隆さんは「もし自衛隊のパイロットだったら田んぼに落としたのではないか。意識や責任感が違う気がする」と語る。

 和枝さんはよく「なぜ私なのか」と言っていたという。厚木の地形に慣れていない不運もあったかもしれないが、逆を言えば、誰の身にも起こり得るということだ。「オスプレイをどうしても配備するなら安全性を確認してから。パイロットの技術が重要だ」と、戦闘機で身内を失った土志田隆さんは結んだ。

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